2015年3月28日

明日の先が考えられない

 夜になって、なんとなく過ぎた一日を思って、ああ今日もなんもしてねえなって思って、慌てて小説を読み始める僕は、一日一日を刻んでいる。

 ここでの「刻む」というのは「区切りをつけながら進行する」という意味ではなくただ「区切りをつける」という意味で、つまり僕は一日一日という単位で日々を認識しているということだ。「今日」という一日の中で僕は三回食事をして漫画と小説を読んで映画を観て自慰をすることを自らに課して、それを毎日のように繰り返そうとする。まるでそれが僕にとっての理想の一日でもあるかのように。実際は気が向かなかったり忙しかったりで多くが実現されないまま毎日が過ぎていくけれど、僕は確実に「今日はあれやこれができなかった。理想を実現できなかった」という思いを胸に抱いている。

 「一日」に対して求めているポテンシャルが高すぎる。
 「一日」には荷が勝ちすぎている。

 食事はともかく漫画や小説や映画や自慰なんて一週間単位や一ヶ月単位で楽しめばいいもので、実際多くの人はそうやって生きている気がする。少なくとも僕にはそう見える。
 なのに僕はどうしてそれができないのか。


 僕は毎日が苦しい。毎日が苦痛であればあるほど「一日」は高い壁になる。一日を乗り越えるのが困難になる。時間はなんでも解決してくれると言うけれど、世界中のすべてが敵に回ったように思えるとき、僕にとっては時間でさえも重みをもって僕を苦しめる敵となる。本当に苦しいとき、時間というのは経過しないものなのだ。だからこそ何か目標になるものがほしくなって、それが出発点に繋がる。

 一日を乗り越えるのが苦しくなったときには、一日を乗り越えることを目標にして生きるのだ。

 矛盾しているだろうか。だけどそもそも世界中のすべてが敵に思えるような状態が矛盾しているし、僕は矛盾の塊だ。もちろん君も矛盾の中で生きているはずだと思う。だからそれも一つの世界の在り方だと認めざるを得ない。僕はそうやって生きている。そのせいだろうか。


 苦しさを感じることとつながる話でもあるけれど、僕は先のことについて考えるのが苦手だ。自分が将来何になりたがっているかなんてこれっぽっちもわからない。自分が春から大学でどんなことを勉強しようと思っているのかわからない。明後日の僕がどんなふうに一日を過ごすつもりなのかわからない。考えられるのはいまと今日のこと、それから明日のことくらい。

 単に視野が狭いというだけかもしれない。未来のことについて考えるとき、現在すでに持っている情報から計算するにはあまりに遠く離れているような気がしてならない。現実と地続きでない迷妄ばかりに逃げ込んで、閉じこもってしまう。僕は頭が悪いのだろうと思う。加えて、精神的な苦痛が視野を狭くしている。

 あまり難しいことはずっとは考えられない。僕はずっと閉ざされた僕の内側を見ている。それだって暗くてよく見えない。そのせいだろうか。


 どうなんだろう。たぶん今挙げたことはどれもいくらかは正しくて、同時にいくらかは間違っているような気がする。端的に言うと、これらは理由になっていない理由なのだろう。なにせ僕は頭が悪いのだ。僕の考えていることはたいてい間違っている。

 それで今ふと思ったことだけれど、「一日単位で生きている」ということに対してこうやって思い悩んでいるということ自体きっと異常で、狭窄した僕の思考があらわになっているようだ。すべきことは明白で、僕は先のことを考えればいい。つまりはどうすれば一日一日に予定と期待を込めすぎないようにできるのかということをだ。

 ふふ。

 でもそんなことはできないのだ、僕には。僕は先のことを考えられない。思い切り手を伸ばして中指の先にようやく触れられるのが「明日」なのだ。その先はどうしてもだめだ。難しいことはさっぱりなのだ。

 それに今が夜ということもある。夜は暗くていっそう先が見えなくなるから、今夜は足元に気をつけて、さあ、おうちに返りましょう。そこの君も。すべきことはひとまずぐっすり眠ることだ。そして明日のことは明日考えようと思う。今日はおそらく寝た方がいいのだろう。夜というのはそういう時間なのだ。

 悔しい。

 そうやって僕は毎日何かを諦めながら手放しながらやっていくしかないのだろうかと思うと少し泣きたい気分にもなるが、仕方がない。

 ただまあ、今夜はもう少しだけ、寄り道をしたい気分だ。だらだら過ごしてしまった「一日」に何か成果を与えたいという気持ちがないというと嘘になるけれど、それよりも純粋に今は、本が読みたい。後先考えられない僕だからこそ、夜だからこそ。おかしくなっていく日常の中でふわふわと漂うような青春を味わうようなSF小説を今、僕は読んでいる途中なのだ。

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