2017年9月1日

映画『パターソン』感想/詩作と愛の思索、街の風景についての物語


映画のなかに住みたい、と心の底から感じる瞬間がある。

もともと僕は、街の空気を掬い取って、画面に閉じ込めたような映画が好きだ。
閉じ込めたような、という表現には語弊があって、たいていそういう作品は画面に映らないフレーム外の世界までも描いているような気さえするのだ。
大林宣彦監督の尾道三部作とか、『海炭市叙景』のような。最近見たのだと深田晃司監督の『さようなら』『ほとりの朔子』なんかもそうだった。

『パターソン』。それは主人公の名前でもあり、同時に彼の住む街の名前でもある。
これは彼の生活を描いた物語でありながら、彼の見る風景としての街を描いた作品なのだ。
(以下、ネタバレむちゃくちゃ含む)



まず、そのパターソンという人物の愛おしさたるや。穏やかで真面目な彼は毎日街の同じ道を走るバスドライバーで、そんな彼の詩作は、情熱的な愛についての思索でもある。
作品で描かれる約一週間の日常は、毎朝いつも妻と眠るベッドのカットで始まる。交わされるさりげない会話と短いキスは、慎ましくも幸福な生活そのものだ。

変わり映えのしない日々は繰り返す。毎朝早くにバスターミナルへ向かい、エンジンをかけるまでの短い時間に詩作をする。乗客を乗せなんでもない会話を聞きながら仕事を終えれば、飼っているブルドッグのマーヴィンの散歩の傍らバーに寄り、一杯あおって妻のいる家へと帰る。
奔放に夢を追う妻はパターソンと対極にあるようにも見えるが、二人はとても幸せそうだ。
けれど、そこにはどこかぎこちなさもある。

そしてまたパターソンは深い愛について、様々な街の住人との触れ合いながら、試作を通じて黙考してゆく。



パターソンの詩作は、『この世界の片隅に』の主人公・すずにとっての絵を描くことと、とても似ている。
想像力と実在世界との間でのコミュニケーション。芸術的行為には往々にしてそういう機能があるのかもしれない。

映画の終盤。パターソンの詩作ノートが、飼い犬マーヴィンによってずたずたにされてしまうことは、彼にとって愛の思索の過程が喪失してしまうことに等しい。
喪失の程度は異なるが、『この世界の片隅に』で、すずが絵筆を握る腕を失ってしまったように。

パターソンは、妻の言葉にも虚ろな言葉を返すだけになってしまう。

いつもの散歩道、滝のある広場のベンチに腰掛けるパターソン。(この景色がたまらなく綺麗なのです……!)
そこへ、詩を愛する日本人の男(永瀬正敏)が彼の前に現れる。男もまた、パターソンの敬愛する詩人・ウィリアム・C・ウィリアムズを愛し、詩作を人生の糧としている。

「あなたも詩作を?」
「いや、ただのバスドライバーさ」
「それはとても詩的だ」

ああああ〜っ最高か????? この会話!!(※うろ覚えです)

そう、とても詩的だったのだ。
繰り返す日々がただ繰り返す退屈な日常などではなくて、本当は彩りに満ちているのだということ。それは、それまでの一週間にしっかりと描かれていたのだ。
そのことをこの一言が、ペンでなぞるように描き出す。
パターソンはその言葉で日常のポエトリーを思い出すのである。

別れる間際、男は無地のノートを手渡して(なんともクサい男だなと思うが)、
一人残されたパターソンは再びペンを取り出し、詩を書きはじめる。
その瞬間の、カメラが彼の想像力に肉薄するようなクロース・アップには震えた。
深い感動がある。



飲み屋で別れ話を延々と続けるカップル、夢多き妻の新しい趣味、女性にアプローチされたことを自慢げに語り合うバスの乗客、犬泥棒(?)に気をつけろと話しかけてくる街の不良の若者たち、言葉にすれば些細な日常の風景の一粒一粒が愛おしい。

これはパターソンという一人の人間と、彼の暮らす慈しみとユーモアのある街の物語だ。
こんな街に住みたいと思う。けれどそれは、あの街に引っ越せばいいじゃん、ということではない。
ひとまず当面のところは、僕は僕にとっての詩を見つけながら、今の暮らしを生きなきゃなと思う。

まあクレジットの引き落としとか人間関係のバタバタとか色々あって内心穏やかじゃなさすぎてそんな余裕ないんですけどねーーーーーーーーー!



ちなみに同じジム・ジャームッシュ監督の名作『コーヒー&シガレッツ』をつい最近やっと見たので、その感想もあります

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