2016年10月26日

壁蝨と煙草

 夏の蒸す夜は、何度も目が覚める。汗をじっとりと吸い込んだ敷きっぱなしの布団で、健史がもがくような寝息を立てていた。布団を蹴散らし、まるで子供のようだ。その側に転がるビールの空き缶を蹴らないように、べたつく足で床を歩く。
 冷蔵庫に麦茶がない。寝る前に沸かしたばかりの薬缶の中身はまだ温く、仕方がないのでグラスに水道水を注いで飲み干す。そのまま顔を洗い、汗まみれになった寝間着を脱ぎ捨てた。全裸で背中を掻きむしりつつ、庭の軒先にかかった替えの下着と穴あきのTシャツを引きちぎるようにして取り込む。布団に戻ろうかと思うが、健史の寝顔を見てその気も失せた。
 草履を履いて外へ出ると、夜風が吹いて涼しい。少なくとも、この安い木造のあばら屋よりはいくらか。冬はあれほど隙間風に悩まされるというのに、夏には空気の流れが滞るとはどういう訳だろう。貧しい俺たちはここから出て行くことはおろか、これから何かが変わる訳でもない。ただ死ぬまで耐えていくのだろう。この暑さにも、寒さにも、誰からも認められないことにも。
 少し前まではそう思っていた。
 近くの河川敷を歩く。まだ仄暗いながらも、ほんの少し白み始めた空、対岸に並ぶ団地の明かりが水面を反射して、散歩するには困らない。砂利を踏み、草履の裏をすり減らしながらいくつか橋の下をくぐった。川を下るほど住宅やビルが増え、さらに先には駅もある。ぼんやりと夢遊するように歩き続け、いつの間にか俺は小ぎれいなアパートの前に立っていた。
 比較的真新しいモノトーンの外壁、出っ張りの少ない直方体。控えめな意匠と機能美が同居したような建物で、立地から言っても住みやすそうだった。くり抜かれたような四角いベランダには居住者の衣類が干してあり、その中で一部屋だけが空いている。この間、健史が突然この部屋のことを口にしたときの苦い記憶が蘇る。
「大学時代の友達が親からアパートを継いで、でも管理とかよくわかんないって困っててさ。代わりに大家を探してるところに、ぼくが誘われて。一部屋空きができたから住まないかって」
「え、おまえ出てくの?」
「まさか。行くなら恭介と一緒に越すし、相談してから返事するって答えた。そしたらその子、二人で暮らしてもまだ余裕あるくらいの広さだし是非おいでって。ギャラない代わりに家賃光熱費はタダでいいっていうし、今度一緒に見に行かない?」
「待って。そいつ女? いつの間に会ってたの?」
「こないだの土曜かな。友達と会うって言わなかったっけ」
 聞いた記憶はあったが、まさか女友達だとは思わなかった。
「……てか、そいつ俺たちのこと」
「知ってるよ。ぼくが恭介のこと話したら、会ってみたいってさ」そうやって健史はいつもの可愛い細目で笑って、「それから『そいつ』じゃなくて京子ちゃんね。まあ、面白いやつだよ」
 その顔が急にどこかよそよそしく見えて、思わず目を背けた。
 それからずっと、胸のうちにはしこりが残る。
 川の流れがずいぶん穏やかになっていた。浅い水底は透けて見え、顔を上げると周囲にはプレハブじみた倉庫や工場がまばらに建つだけ。どうやら考え事をしながら駅まで越えて、遠くへ来すぎてしまったらしい。その風景にふと口寂しさを覚え、思わずポケットを手で探る。そういえば、煙草を持ち出すのを忘れていた。振り返れば空はすっかり朝の白さにまばゆく染まり、目を細めずにはいられない。日の出までには帰ろうと、来た道を引き返し始めた。
 静かに引き戸を開けて、玄関で草履を脱ぎ捨てる。
「おかえり」
 起き抜けの声で、健史が言った。
「起こしちゃったか」
「いや、たまたまさっき起きただけ。どこ行ってたの?」
「秘密」
 俺は笑って、まだ布団の上で座っている健史に歩み寄る。
「何だよもう」
「散歩だよ。歩いてただけ」
「嘘」
 甘えたように不満げな声を漏らす、その口を強引に塞いだ。もつれて布団に倒れ込んでなお、唾液を舌で器用に送り合う。温い汗の味も混ざる。皺だらけの布団がさらにめくれて折れ曲がるのも気にならず、ただ互いを貪り合った。ひとしきり味わうと、ようやく息をすることを思い出したかのように、糸引く唇を離した。
 荒れた呼吸で、俺は言う。
「俺たち、この先もずっと付き合ってるのかな」
「さあ」健史は唾液の垂れた口元を舐めて、「どっちにしたって、きっと恭平くんは煙草をやめないだろうな」
 その割り切った笑顔を見て、俺はこんなこと訊かなければよかったと思う。何かが少しずつ、けれど確実に変わっていくという不安が、はやる気持ちを突き動かしていた。
「俺の身体、におうかな」
「におう。でもぼくは恭介くんのにおいは好きだ」
 確かに俺はこれからも煙草をやめないのだろうな、と思う。少なくとも、こうして甘えていられる間は。今はそれだけ考えて、俺は健史の服を力ずくで剥ぎ取った。
 日の出の時刻。俺たちはもう一度激しく愛し合う。腰を絞るような快楽に身を委ねながら、そういえばあのアパートで煙草は吸えるだろうかとぼんやり思った。
 床板の腐った軒先に陽だまりができる。


(2049字・2稿)







 久しぶりに小説をここに上げますが、上げていないだけで一応ちょこちょこ書いたりはしています。
 もっとオープンマインドに、人目に晒すべきではと思いますが同時に晒される場所がインターネットでいいのか、など色々思いますが思うだけで基本的に行動には移しません。何の話だ。

 ちなみに「壁蝨」は「ダニ」と読みます。読めないよな。僕は読めません。でもやたらとカッコいいので漢字にしました。カッコいいから許してほしい。
 あと特別BLが好きとかではないですし、敢えてそういうものを書こうとはじめから思ったわけでもなく、ただジメジメした男同士の関係っていいよなーという純粋な気持ちからのものです。でもあんまりジメジメしなかった気がします。力不足なり。

 精進します。感想ください

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