2014年11月25日

善人 #1

善人 #2
善人 #3

 琴乃は恥じらいもなくシャツの胸元を指で摘んではたはたと空気を送り込んでいた。もう片方の手では僕が差し出した氷たっぷりの麦茶入りのコップを手にとって、それを一息に飲み干す。コップの尻から大きくなった水滴が堪えかねてテーブルに跳ねた。琴乃のあごのラインにも水滴が同じように伝って落ちていく。
 能登琴乃、昔の恋人。琴乃は僕の記憶のなかの姿と比べてずっと老けて見えた。痩せて骨張った頬なんかがそうさせているのかもしれない。ソファーが浅く沈んでいて、体重はかなり減ったように見える。だけど僕は目の前の琴乃に対して何も感じないことを自覚した。今は喜びも、後悔もない。それだけ僕らは離れてしまったんだ。だけど昔だってそんなに深く関係していたわけではなかったと思う。そうだ、僕はあの頃だって何も感じてなどいなかったのだから。
「まったく、クソ暑いね、ここ。エアコンないの?」
「あるけど。冷房入れようか」
「お願い。ガンガンに入れて」
 僕はテーブルの下に置いていたリモコンを手に取って冷房モードの二十五度に設定した。この間掃除したばかりのフィルターを通してすぐに涼しい風が行き渡る。
「くそ、慎一のやつ……ああ、思い出すだけで腹が立つ」
 琴乃は急に声を低くして唸るようにそう言った。慎一。初めて聞く名前だけど、僕にはそれが琴乃とどういう関係なのか何となく想像がついた。そして、琴乃の長い首や目の周りに浮かぶ青い痣の意味も。
 これが琴乃が僕の所にきた理由で、つまりは本題なのだ。琴乃の痛々しい姿は僕に別れてからの数年間に彼女を襲ったであろう様々な出来事を思わせたけれど、僕の前にそういう姿でやってくるというのは僕の同情を誘うことを良しとする気持ちの表れでもある気がして萎える。それでも一応、座ったまま肩を前に倒して話を聞く姿勢を作った。
「もう堪えられない。こんな生活……」
「ちょっと待って。慎一って誰」
「あれ、知らなかったっけ。今の彼氏……」
「知らない。でも、なんとなく想像はついた」
「相変わらずだね。じゃあ、この痣のことも」
 琴乃は青く腫れた目蓋を指差した。僕は頷く。
「彼氏からの暴力か。それに『今の彼氏』って言い方するってことはまだ別れてないんだ。それで、僕は君を保護すればいいのかな? 警察に行かない理由は何だろう?」
 琴乃は静かに目を見開いて、それから笑った。まるで昔のことを懐かしんでいるみたいに。それがいっそう僕と琴乃との溝を際立たせた。僕はそんなふうには笑えない。
「驚いたな。昔と変わらず頭の回転速いんだ。やっぱり昌治は昌治だ」
 僕は久々に琴乃の口から自分の名前を聞いた。何の感慨も湧かなかったけれど、表情だけは笑顔を模った。感情ではなく状況にあわせて表情を作るのが癖になっていた。
「慎一は、警察官なの」
 それはこの問題とどういう関係があるのだろう。警察官であれば暴力を振るっていいという法律は今のところ日本にはない。だが、その慎一という男が琴乃に対してそういう脅し文句で縛り付けていることは想像がついた。僕は琴乃を弱い女だと思った。琴乃は立ち上がって、スカートの皺を伸ばした。
「晩ご飯まだでしょ。私が作るよ」

 琴乃は少ない冷蔵庫の貯蓄から食材を選んで、簡単な焼き飯とけんちん汁を作ってくれた。頭は良くないが、昔から物事は器用にこなす女だった。キッチンに立つ琴乃の姿には熟れたものを感じる。
「保護しろとは言わないよ。ほんの数日だけでいいからかくまってほしいだけ」
 フライパンで炒める乾いたチャッチャッという音とけんちん汁のぐつぐつという音が混じり合う。良い匂いがした。
「いいよ。昔みたく自由に過ごしてくれて構わない」
「……ありがとう。なんかごめんね、同情心とか親切心につけ込んでるみたいで」
「気にするなよ。昔から僕はこうだろう?」
 琴乃は笑った。
「そうだね」

 僕と琴乃は幼なじみだ。小学校から大学まで同じという、嘘みたいだけど本当の腐れ縁。だから琴乃は僕のことをよく知っている。
 中学の修学旅行のバスの中で近くの男子が嘔吐したときに率先してそれを処理したこと、大学の飲み会で気分が悪そうな人を会の途中で抜けて家まで送ったこと、僕でさえ覚えていないようないろんな出来事を、琴乃は懐かしそうに語った。昌治は本当にたくさんの人を救ってきたんだよ、昌治みたいなのが本当の善人なんだね。僕が頷くと、琴乃はまた笑った。自分でもそう思うんだ? まあね。それって、とても可笑しい。そうかな。そうだよ。でも本当は他人に興味なんてないんだよね?
「え?」
 チャッチャッチャッチャッ、グツグツグツグツ。パチンパチン、と琴乃がコンロの火を止めた。それから僕の方を見た。急に訪れた静寂に、僕は動揺の色を隠せない。
「何だって?」
「本当は他人に興味なんてないんだよ、昌治は」
「そんなことはないよ」
「今だって本当は私に興味なんてないんだよね? ……いや、昔も結局はそうだった。だから上手くいかなかったんだよ、私たち。そのことに気付くのが遅かった私の落ち度でもあるんだけど」
 他人に興味がない、確かにその通りだ。琴乃がそのことに気付いていたとは思わなかった。だけど僕は善人なんだ。それでいいじゃないか。
「君はただ、善人なだけ」
 何が不満なのか、僕にはわからなかった。人はそんなにまで他人に興味を持たれたいものなのだろうか。それが恋愛というものなのだろうか。僕にはわからない感情だなと思った。僕は琴乃に対する興味を示そうとして質問を考えた。
「その彼氏ってどんな人なんだ」
 僕がそれを言い終える前に、あ、と琴乃が小さく悲鳴を上げた。焼き飯の盛られた皿が、大きな音をたてて割れた。焼き飯が盛られていたせいか、心臓が破裂したかのような鈍い音だった。
「いけない……」
 琴乃は慌てて飛び散った陶器の破片を指で拾い始めた。
「おい、大丈夫かよ」
「だ、大丈夫――」
 言い終わるのとほぼ同時に琴乃は「痛」と顔を歪めて指を押さえた。血が出ていた。
「大丈夫じゃないだろ。それに琴乃、足元ストッキングしか履いてないじゃないか。ちょっと待ってろ、今消毒液と絆創膏とスリッパ持って来るから。そこを動くなよ」
 僕は立ち上がって玄関へと歩いた。琴乃の呻くような低い声が背中に聞こえる。琴乃の彼氏……慎一と言ったっけ。琴乃はよほど彼のことを怖がっているらしい。いったい何をされたというのだろう。面倒なことになった。僕はスリッパを取り出すついでに洗面台のハンガーにかかっていたハンドタオルを抜き取って、消毒液と絆創膏の入った救急箱を持った。キッチンへ入ると、そこには包丁を構えてその切っ先を僕に向ける琴乃が立っていた。息が震え、肩は上下している。なんだか正気じゃないみたいだった。
「来ないで!」
 裏返った叫び声が響いた。血はさらに傷口からあふれ出して止まらない。床は血と陶器の破片にまみれていて痛々しい。僕は救急箱をまな板の上に置いた。
「指先切ったくらいでそんなに慌てるな。落ち着けって」
 僕は琴乃に近付いてスリッパを置こうとするけど、それを麻里が許さなかった。
「来ないでって言ったでしょ! 慎一! もうやめて!」
「僕は慎一じゃない、安心しろ」
「来ないで!」
 あと一歩の距離で僕は包丁を目の先に突きつけられて停止した。ゆっくりとしゃがんでスリッパを置く。だけど既に琴乃のストッキングはずたずたで、そこからもまた血が出ているらしかった。僕は立ち上がった。
「琴乃、落ち着け」
「何言ってるの。慎一がやったんじゃない!」
「僕じゃない。琴乃が自分で手を切ったんだ」
「嘘だ! ……私が自分でそんなことするはずがないでしょう」
「だから……」
 ちょっとした事故だったんだと言おうとして、やめた。今は混乱しているようだし、言っても無駄だと思った。とにかく今は口で説得するよりも、琴乃の手から包丁を離すことが先決だ。僕は琴乃の腕を掴んだ。
「――は、離せ!」
 僕は握力の限り強く手首を締め付ける。琴乃は必死にもがくが、僕と琴乃とでは身長の差がある。僕はそのまま腕を高く持ち上げ、吊り上げるようにしてばたつく琴乃を抑えた。指先から流れる血の川が細くなって降りてくる。僕の手にも触れた。暖かい。琴乃の手の先が白くなる。じんわりと力が抜けているはずだ。血の生臭い臭いがする。血の川が降りてくる。僕はその様子をじっと見ていた。今、僕の腕を伝う血。琴乃のトラウマ。暴力の記憶。僕の中へ流れてくる。血液が流れている。止めなければならない。僕は誰だ? 僕は善人だ。琴乃が僕の腕にぶら下がったまま、僕の下腹部を膝で蹴り上げた。
「ぐ」
 景色が反転した。肌が赤く、血が白く染まった視界。息が出来なくなった。だけど僕は琴乃の手を離さない。腕の筋肉が独立して何があっても離すなという命令に従って動いているみたいだった。僕はそのままバランスを崩して、後ろに傾いてしまった。慌てて足をついたそこには血と破片の海で、足の裏に細かな破片が刺さったまま、僕はゆっくりと流れる意識の中で足をすべらせ転倒した。
 ずぶ、と肉を切る音よりも先、生々しい感覚が、琴乃の手首を握る僕の腕に伝った。とても柔らかい、ほとんど抵抗のない肉、張りつめた風船を割るみたいに、簡単にその肉ははじけた。
「ぐぶううう」
 それは声帯の震える音ではない、喉にあいた隙間から吹き出す空気の音だった。吹き出す空気は血液で泡立ってさかんに破裂した。僕はまだ琴乃の腕を掴んだままだった。ゆっくりと掴んでいた指を離した。指が硬直していて、腕から剥がすのは難しかった。手首には僕の指の痕がくっきりと残っていた。
「は、あ」
 呼吸をする。そこで初めて自分が呼吸を忘れていたことに気付いた。深呼吸をする。僕に覆い被さって血の泡を吹いている琴乃を傍らにどかすとどさりと固い音がした。僕は後ずさって落ち着いてまた深呼吸をした。琴乃は泡を吹かなくなっていた。僕は琴乃に再び近付いた。
「おーい」
 頬をぺしぺしと叩く。反応はなく、首の亀裂がその度に震えた。
「死んだのか」
 そうか。やはり僕には何の感慨もなかった。相手が琴乃だから? いや、違う、本当はそんなことは問題じゃない、これは死だ、誰が死ぬとかじゃない、死そのものに悲しみはあるはずなんだ、だけど僕にはそれがない。どうして、僕は善人だ、そう言われて生きてきた、そうだろう? それが全部嘘だったって言うのか。僕はそのことが、ほんの少し、悲しかった。
「君は誰?」
 裂けた琴乃の首がそう僕に尋ねた。

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