2016年5月28日

おむつ姫

 自分の行いがどういう結果をもたらすか、少しは考えろ。ノリと勢いと煩悩だけで生きてるバカども。世の中には決定的に取り返しのつかないことっていうのがあって、それがまさにこの状況なのだといい加減学べばいい。
 教室の黒板の前で、沙姫が床にへたり込み泣いている。声を上げずに引き攣るように泣くその姿があまりに痛々しくて見てられない。衆目に汚されたスカートが花びらみたいに広がり、その真ん中で泣く沙姫はとても小さい。
 本当はここにいる誰もが知っていたはずなのだ。
「おむつ姫……」
 この期に及んでまだバカな男子の一人がニヤけた顔でつぶやいていて、私はぎょっとする。
 早とちりして鳴き始めたセミがその声を滲ませ、春の終わりを告げている。

「わたしは病気、です」
 学年初めのホームルームでの自己紹介で聞いたその声が、私にとって沙姫の一番大きな声だ。なんの病気かについての話はなかったが、沙姫と同じ小学校だった人たちからすぐに噂が広まる。
 緊張すると失禁する病気。だから小さい頃からずっとおむつを履いているらしい。
 私はそんなことにはあまり興味なくて、へぇー、そんな病気があるのかと思うだけだ。それよりも私は沙姫の整ったオーラというか、指で梳きたくなるような黒髪とか毎日きれいにアイロンがけされたスカートのプリーツとかが単純に好きで、いつの間にかずっと目で追うようになっていた。
 だけどクラスの人たちの多くは違った。特にバカな男子は面白半分に沙姫のことをからかうようになっていて、その時の男子の奇異なだけじゃないエロい目線が本当に気持ち悪くて嫌だ。沙姫のおしっこなら飲めるとか言うアホもいたけど、沙姫だってそんな奴相手に自分の尿を飲まれたくなんてないだろう。そしてそうやってからかいの対象になるたびに、沙姫は顔を火照らせてうずくまり、小さく震えた。小学生の頃は女子からもいじめのようなものがあったらしいけど、生理が始まる子が出てくるとそういうことでからかいにくくなったのか、自然となくなったというのがせめてもの救いだ。
 だけど問題は今だ。
「あんた、やめさせてよ。ああやってからかうの」
「はあ? なんで俺なんじゃ」
「あんたクラスのリーダー? みたいな感じやんか。それに友達も多そうやし」
「んなことないって」
 放課後、呼び出した非常階段の踊り場で、私は久しぶりに草介と話す。
 謙遜する草介の横顔は昔よりも大人びて見えて、なんだか別人みたいだ。中学に入ってから急に身体も大きくなった気がする。それにクラスのバカどもと違って落ち着いていて、頼れる存在だ。実際、沙姫がからかわれているようなときにもさりげなく話題を別の方向にずらしてフォローしたりしている。草介は沙姫に対してどう思っているのだろう?
「沙姫に対して冷たくない?」
「いや別にそんなつもりやないけど……」
「じゃあ助けてあげようとか思わんの? あんたにはそれができるんやで?」
 すると草介はしばらくの間押し黙り、私の顔をじっと見る。
「なんであいつのことそんな気にすんのや? おまえ、あいつとそんな喋ったこともないやろが」
「そうやけど。でも、あんなとこもう見たくないし」
「おまえ、あいつのこと嫌いなんちゃうんけ? さっきもそうやけど、いつもお前あいつのこと見るとき、ぶすっとしてるで」
「え?」
 そんなふうに思われていたなんて知らなかった。
「ちゃうよ! 私がムカついてるんはアホすぎる男子らやし、そもそもそんな喋ったこともないのに嫌いになんかならんわ」
「確かにせやなあ。アホの男っていうと、あいつか。山崎」
 そういえば、さっきみんなが見ている前で沙姫のスカートをめくったのが山崎だった。その後もずっと下品にはしゃいでいて、本当に救いようのないバカだ。
「あれは論外。私はああやって病気やからって腫れ物に触れるみたいな周囲の空気とか、男子のエロい目つきとか、そういうのが全部気持ち悪いだけ。……やからあんたに、どうにかしてほしいんや」
「ちょい待てや。なんでそんな話になるんじゃ。せやったら俺やなくてもいいやろが」
 思った以上に草介の態度が煮え切らなくてもどかしい。どうしてすぐに頷いてくれないのだろう。問題の外側にいるみたいな態度がちょっと気に入らない。
「あんただって沙姫のこといやらしい目で見てるやんか……」
「はあ? なんじゃそりゃ」
「私にはわかるもん。あんた、沙姫のこと好きなんやろ?」
「ちょっとお前、さっきから何勝手なことばっか言ってるんじゃ」
 ムキになる草介を見て、やっぱりそうなんだと思う。
「答えてや。好きなんやろ?」
「ほざくなや。お前が何に対してキレてんのか全然わからんけど、お前ひょっとしてあいつに嫉妬してるんちゃうけ?」
「は……?」
 階段に座っていた草介が立ち上がり、階段を降りていく。呆れたようなため息とともに、スラックスの埃を払っている。何も言えない私に背を向けて、階下で立ち止まった草介が言う。
「お前やから言うけど……誰にも言うなよ? 確かに俺は沙姫のことが好きや。本気で大事にしたいと思ってる。せやからこそ慎重にいきたいんや」
「なにそれ……」
 笑ったつもりで、声が震えた。
「アホか。そんなこと言うて結局あんたは沙姫が傷つくのを放ったらかしにしてるだけやんか!」
「お前には関係ないやろ」
 半ば叫ぶような私の言葉とは裏腹に、溜息みたいに言い捨てる草介の態度があまりに落ち着き払っていて本当にムカつく。
「やめときなね! あんな子! あんたは卑怯やとか思わんの!?」
 下腹部をうずまくどろどろした気持ちがあふれる。こういう感情のことを何と呼ぶのか、知っている気がするけど今はよく判らない。
「私はな、あの子がなんでもかんでもされるがままで弱いもんみたいな顔しくさってんのが耐えられへんの!」
 草介はその背中で聞いている。息巻くわたしの声が落ち着くのを待っている。そして、これまでに聞いたこともないような低い声で「お前、最低やな」と呟いて去っていく。
 私はひとり、急に冷え込む初夏の夕暮れに取り残されている。
 自分の行いがどういう結果をもたらすか考えないバカは私だ。
 なんでも思ったことをただ言えばいいというものではないし、それに本当に言わなきゃいけないことを言うってことも同じくらい大事なことなのに。
 私が沙姫のことが好きだってことも確かに本当なはずだ。

 それからしばらくして私はバカの山崎が沙姫の替えのおむつを盗もうとしているところを捕まえて、誰にも気付かれないように先生に引き渡す。「教室で失禁させたかった」と笑う山崎を私は本気で殴る。二度と立ち直れないくらいに、何度も殴る。ついでに私もこっぴどく叱られたけど、そんなことは別にいい。
「ありがとう」
 職員室から廊下に出ると、小さく細い声で沙姫が言う。控えめだけど丁寧なお辞儀で、その長い髪がまっすぐ下に垂れる。はっとするくらいに純粋で、誰もが目を凝らすほどの透明。私はやっぱりこの子のことが好きだし、好きでよかった。私はその前髪を指でかき分け、
「あんたと私、友達にならへん?」
 だけど沙姫は顔を上げないままだ。
「あかんよ。私、おむつ履いてるんやで? 変な子やと思わんの?」
「そんなんどうでもいいわ。私は沙姫のことが本当に可愛いと思うし、純粋に友達になりたい。いっしょに帰って寄り道とかしたいんや」
 それだけで、縋るような目が私に向けられる。ぽろぽろと涙がこぼれて、
「うれしい……!」
 私はその細い腰を抱きしめる。これで少しは周囲の沙姫の見る目も変わって、いじめやからかいがなくなればいい。
 それでもやっぱり、こんなふうに泣く子がいるなんて信じたくなかった。スカートをめくられるなんていう決定的な出来事のせいで沙姫はあまりにも可哀想な子になってしまったし、そのことが彼女の綺麗さをいっそう引き立てているのだと、私はようやくわかる。
 ひどいことになればなるほど綺麗になる沙姫が、私は憎い。だからこそ私は精一杯の思いを込めて沙姫が幸せになることを祈る。もう二度と誰にも沙姫をおむつ姫だなんて呼ばせたりしない。
 草介はあれから私とは口をきいてくれないけれど、それでも、教室に汚い水たまりができなくて、本当に良かった。










「水たまり」 というお題で書きました。
もっと短いものを書くつもりだったのでかなり圧縮気味になっていますが、そこそこ手応えがあったので……また近いうちに大幅に書きなおそうと思います。もうちょっと厚くしたいです。

0 件のコメント:

コメントを投稿