2016年5月8日

透明な檻

 眠りを知らない喧騒のなかで、人々は夢を見ないでいられることに安心している。夜は程良い酩酊に満ち、歩く人の足取りは覚束ない。私もたぶん、同じなんだと思う。他人の顔のなかに鏡のように映る私自身を見たくなくて、顔を伏せながら歩く。
 うるさい街。
 今日も中央線のダイヤが乱れているらしい。そのアナウンスと同じ声で、すぐ後に電車の到着が知らされた。たった三分しか待たなかった。この雑踏から一人ぶんの足音が消えたところで、誰の耳にも留まらない。
 幡ヶ谷駅北口の猥雑な通りを抜け、ファミマのある角を折れると狭い場所に無理やり建てたようなマンションがあって、そこに住んでいる。駆け込むように玄関の重い扉を閉じると、そこにあるのは静寂であり空白だ。外界を遮断する鉄筋コンクリートの壁と柱は、私の華奢な体を支えるにはあまりに頑丈すぎる。この街にぽっかりと空いた穴のような、家具の少ない四畳半。物が手の届く範囲に収まるようにと思って選んだ部屋なのに、ここにいるとむしろ全てが遠くに感じられる。
 けれどここでの二年かそこらの生活で、この暗くて深い穴に落ちるような孤独にも慣れる。私は崩れるみたいに横になり、少し薄くなった敷きっぱなしの布団の、その冷たさにも親しみを感じている。静かすぎるこの部屋で私はため息をつくことすら躊躇われて、実家からテレビでも持ってくるんだったなと思う。でもそんなことを言ったらきっとお母さんが反対しただろう。実家でいちばんテレビを観ていたのはお母さんだった。
 そもそも両親は私が東京の大学に行くことにだって反対だったはずだ。でも彼らはそんなことは一言も口にしなかった。「いっぱい勉強してきいや」と何度も繰り返された言葉はきっと本音を押し殺した末のもので、けれど当時の私はそこまで気付かない。そもそも私は自分が何をしたがっているのかすら分かっていなかった。二年前にまだ女子高生だった頃の私は、漠然と友達が語る将来設計に便乗していただけなのだ。私自身が田舎の小さい家を出て一人暮らしをしたいとか、東京の大学に行きたいとか思っていたわけではなくて、「一人暮らし」も「東京」もなんとなく友達が口にしていた話題のひとつにすぎなかった。だからもし両親が「いっぱい勉強してきいや」と私を送り出したりさえしなければ、今、ここにいる私はいなかったはずなのだ。
 だったら、私はどうしてこんなところにいるのだろう? 私のものではない私の人生を、私が生きている。
 時間切れだとでも言うように、ポーチの中の携帯電話が震える。いつも掛かってくる電話はたいていバイト先からのシフトの応援の要請で、その気になれない私は動かない。だけど十秒二十秒と鳴り止まない振動にちょっとだけ責任を感じた私は、寝転んだままポーチの中を探って携帯を見つける。
 母からの電話だった。
 悪い冗談だと思う。そもそもこんな時間にかかってくる電話がいい報せであるわけがないのだ。考えるのを諦めて、通話ボタンを押す。はやる母の声が私の名前を呼ぶ。
「もう、何しとったんさ。なかなか出んから切ってまうとこやったよ」
「さっきまで電車の中だったから。それで何」
 要件を早く済ませたいのに、そこで母は言葉を濁らせる。何か欲しいもんがあったら言うてんか。料理も自分一人でやってんのん。部屋は綺麗にしとかんとあかんよ。曖昧な話題に、私は母には特に用事などなかったのだと知る。いつものことだから慣れたけど、こういう不毛な会話はとにかく疲れる。
「しんどくなったら、いつでも戻っといでよ」
 言わないでおいて欲しいことを全部言ってしまう母のそれも優しさなのだと分かる。それなのにどうして私はこんなにも吐きそうなんだ。ただただ母の望むような娘になれなかったことが心苦しい。
「うん。大丈夫」
 こんなところでまで私を振り回さないでよ。
 通話を切って、それまでせき止められていたものが溢れだすように深い呼吸をする。
 天井をファミマの青白い明かりが照らしていた。顔を上げると、枕には鱗粉のように薄いピンクパールのアイシャドウが零れ落ちている。そういえばまだ化粧も落としていない。私は立ち上がり、窓に映る滲んだアイラインを確かめる。
 二つの顔が重なる。ぶれた描線の重ならない輪郭。この部屋にたった一つしかない窓は二重になっていて、しかもはめ殺しで開かない。この静かすぎる部屋に、以前は音楽をやる人でも住んでいたのかもしれない。なんとなくその人の影を見ようとするけれど、それにしてはあまりにも人の匂いのしない部屋だった。
 目を凝らす。窓に顔を寄せる。私は私自身の輪郭を探るけど、そこで別の小さな黒い点を見つける。それは窓ガラスの表面に付着していて、塵かと思って指で撫でてみるけど、落ちない。
 動いている。はめ殺しの二重窓の、その二枚のガラスの間に、一匹の蟻が這っていた。どうしてこんなところにいるのだろう。どうやってこんなところへ入り込んでしまったのか。しかし歩みは遅く、ずいぶん長い間ここにいたらしいことがわかる。自分がどの隙間から入ったのか、わからなくなってしまったのかもしれない。小さな黒い脚が力なく顫動し始めていた。閉じた狭い空間の中で窒息しかけているみたいだ。
 私にはどうすることもできない。
 この透明な檻のなかで蟻は、誰のものでもなく自分だけの人生を生きていた。誰に救われるでもない最期を迎えようとしている。ああ――私はきっとこんなふうには死ねない。
「違う!」
 吐き気が声になって出た。
 違う。違う。違う。私はこんなふうになりたいわけじゃない。
 渇いた喉が張り裂けそうだった。叫びが頭に響いて揺れる。言葉はなんだっていい。ただ、この街で遠くなってしまった私の耳にも届くくらいの音量で、私は自分の声を聴きたい。本当の声を。
 それでも、この部屋からは漏れることのない叫びだけれど。
 深く呼吸をする。まだ耳鳴りの残る静寂が、すぐにやってくる。あれほどぼやけていた輪郭が今になってはっきりと窓に映っていた。滲んだ目元に、私はほんの少しだけ安心する。
 私のものではない人生で、この涙だけは私のもの。いつかこの透明な檻から出るための、唯一の武器だ。だから私はもう少しだけ頑張ろうと思えるけれど、頑張らなきゃいけないことが、やっぱり苦しい。

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