2016年2月7日

映画「親密さ」論/メタフィクションを《演じる》こと

2012年/255分/濱口竜介監督
この作品について感じた諸所については以前にも別の場所で語ったことがある。他人に見せられるようなまとまりのある文章にはなっていないのだが、それはそれで初めてこの作品に触れた時の心のざわつきだとかメーターを振り切るほどの感情の奔流に飲まれ翻弄された心の動きなんかがある程度そのまま再現されているように思う。それはそれでいい。というか、そういうふうにしか書けなかったのだろうと今となっては思う。

今でも覚えている。オールナイト上映を終えて見上げた早朝の渋谷の空の青さを。
あの日の感動はひときわ特別で、僕はもはやそれを超える情動を言葉にするすべを知らない。それに、何か書こうと思っているうちに鑑賞から3年近く経ってしまった現在では、当時との感覚のズレがどうしても出てきてしまい、結果的に嘘の言葉を書き連ねてしまいかねない。
要するにもう僕にはその日観た「親密さ」についての感想というものを書けない。少なくとも今の自分はそう信じている。

だから今の僕にできることは、すでに濾過された感覚をこねくり回すだけの、考察とも言えない何かだ。僕があの時、あの空間で感じていたはずの何かを、手にとって見える形で確かめてみようという、ただそれだけの試みだ。あわよくばその「何か」がこの文章を読んでいるあなたと共有できればいい、という思惑もひそかに抱きつつ。


※予め宣言しておきますがこの文章はネタ半分・真面目半分でできてます


1.「親密さ」の多層構造


本題に入る前に予め断っておくが、この文章は特に読まれる対象を限定しない。もちろん既に「親密さ」を知っている人ならよく理解して読み進めてもらえることだろうが、しかしこの作品について知らない人でも「この文章はこの文章として」読むことは可能だろう。詳しい理由は後ほど述べるが、ここでは物語の委細について触れることはしないからだ。同じ理由で、致命的なネタバレになるような情報の開示もほとんどないと思われる。あったとしても、作品の面白さを損なうようなものではないはずだ。ただネタバレを過剰に恐れる人は避けたほうが無難かもしれない。

あまりに膨大な物語の本流とでも言うべき映画「親密さ」をまるごと読み解こうだなんて大層なことをする気はない。ここでは、主に《物語の多層性》を切り口にして考える。

だから、確認するべきことは一つだけだ。この作品の持つ特殊な構造について。

この作品は大まかに見ると3部構成になっている。
第1部「一つの演劇作品を作り上げる若者たちのドラマ(作中世界)」
第2部「実際に上演された演劇作品(作中作世界)」
第3部「上演後のエピローグ(作中世界)」
というように、現実から虚構へ、そしてまた現実へと戻ってくるという流れになっている。
第3部は第1,2部と比べるとそれほど尺をとって描かれているとは言えないため2部構成だと考える人もいるだろうが、「物語の流れの切れ目」ではなく「フィクション階層の深度」で分けると 作中世界/作中作世界 に二分することができる。

こうした「入れ子構造」に代表されるようなフィクションの形態をメタフィクションという。詳しい定義をあえてここですることは避けるが、ニコニコ大百科における定義が面白いのでここに引用してみる。
メタフィクションとは、第四隔壁の打破であり、フィクションがノンフィクションをフィクションに見立てる表現技法である。(2016/02/07 参照)
「第四隔壁」というのは演劇用語で、舞台の両脇と舞台裏という3枚の壁に次ぐ、「観客と舞台」の間の見えない壁のことである。これを「打破する」というのはつまり、虚構を現実に介入させたり、またその逆に、現実を虚構に取り入れたりすることだ。そうすることによって「劇中の時間」と「観客の時間」を混同させることができる。

こうしたことが、「親密さ」においても起こっている。


2.「親密さ」におけるメタ構造の効果


ここから少しややこしくなるので、まずは基準になる視点を定めておこう。
基準になるのは、今これを書いている僕、ないしはこれを読んでいるあなたの視点。
要するに「映画『親密さ』の観客」である(実際に観たかどうかはさておき)。

この観客から見て、「親密さ」の第1,3部の「作中世界」は一層目のフィクションである。
そして第2部で描かれる「作中作世界」は2層目のフィクション、ということになる。
さっき僕はこの構造について「現実から虚構へ」などと書いたが、より正しく言い直すならば「フィクションからより深いフィクションへ」となるだろう。

ここでようやく、あまりに基本的で素朴な問題が立ち現われてくる。
この「作中世界/作中作世界」というメタ構造が、「親密さ」にどのような効果をもたらしているのだろうか?

僕はこの問いに対して、《演技》《世界の拡張》という観点から考えてみようと思う。


2.1.メタ構造における「演技」の機能


「親密さ」という映画がこのような2層のメタ構造をしていることには当然必然性がある。超ダイジェストをしてしまうと、この作品の物語は「役者が演技をする。」というただ一文に集約される。よってこの映画における最も重要なモチーフは、そのものずばり「演技」なのである。

作中作世界における登場人物の演技はみな、作中世界で役者が考えたこと、経験した出来事のうえに成り立っている。役者の性格や態度と、舞台の上でのキャラクターのズレ、そういった一つ一つが作中作世界の演劇に入り込み、その演劇の要素とは別のところにある厚みを与えている。
これはそのまま「親密さ」の厚みとなり、その長尺と相まって、力強い感情の迸りを作品に満たしている。これこそが「親密さ」という作品の凄みだと言えるが、しかしそれだけが「演技」の機能ではない。メタ構造ならではの特性を活かした効果がもう一つ存在する。

作中世界/作中作世界の間の「層」が遷移するとき、はっきりと目に見えて起こる変化として「演技」がある。
作中世界において「役者」であった若者たちは、作中作世界において「登場人物」に変容する。
女優がニューハーフの詩人になったり、稽古にそこまで真面目に取り組んでいなかった役者が友情に厚い人間になったり。逆に言えば、そういった変化が「層の遷移」をいっそう明示的にさせているとも言える。

ふつう観客は何かしら演劇を観るとき、当然それが「作りものである」ということをある程度了解したうえで、舞台のうえでの出来事が実際にあるものとして作品を楽しむ。だが、「親密さ」における作中作世界の演劇は、作中世界の役者が「演じている」ものである、という厳然たる前提をむきだしにして進行するのである。その証拠に、作中世界における演出家の女は作中作世界の演劇に役者として参加せず、上演中はずっと客席からその演劇を見ているのみである。こうして層が遷移してもなお「見る側」の視点を残すことにより、舞台の上で演じている役者たちが、演劇における単なる「登場人物」ではなく、「演じられた登場人物」であることが明確になる。

さて「フィクション」はしばしば「しょせんは作り話」といった表現をされることからもわかるように、多くの人から「なんでもないもの」であると認識されているだろう。そうでなくても、我々が生きている現実に比べれば、フィクションの意義は薄い。逆に現実よりも虚構に価値があるなどと言い出せば途端に「現実逃避だ」と後ろ指を指される世の中である。
しかし、それでもマンガやアニメ、ゲーム、小説など、世にはそういった虚構にあふれている。これらすべてが、現実と比べて「なんてことないもの」だとするなら、なぜそれらすべてのものが「そこにある」のだろう?
なぜそれらすべてのものが「生み出された」のだろう?

「親密さ」第1部において、「現実」の暗喩として「戦争」というモチーフが登場する。隣国の戦争。日本が戦うわけではないにしても、遠いようでいて、それほど遠くない現実の到来。そこで登場人物たちは問われるのである。
「隣の国では戦争をしてるっていうのに、しょせんフィクションでしかない演劇をやる意味って?」
これは「親密さ」における大きなテーマの一つとなっている。作中世界においても、登場人物たちの間では様々な「創作論」が語られるが、それらすべての創作論の根源はこの問いの中にある。
それがフィクションであることが明示的に描かれた「フィクション」、それはつまり「なんでもないことですよ」という標識に他ならない。
まさに隣国で戦争が繰り広げられる最中に、その「なんでもないこと」を演じる意味を問い、模索しながら演じる役者たちの姿。それこそがこの映画のメッセージなのだ。

その問いに対して、第3部での登場人物たちはある程度決着をつけているように見える。しかし、完全にとはいかない様子でもある。作中世界の登場人物たちはそれぞれ真摯な現実を生きつつ、その問題について考え続けていくのだろう。
登場人物たちと同様に、この「なんでもないことの意味とは?」という問いは、余韻という形で我々観客の胸の中にも完全に消化されることなく残る。
この問題は観客たちが考えるべき問題でもある、ということだろうか。

でも僕は思う。僕は感動した。それが「つくりもの」であることをはっきりと認識し、現実と比べれば「なんでもない」ものであることを理解したうえで、感情の昂りがしばらくおさまらなくなるほど感動したのだ。
確かに、どんな虚構も、現実に生きるうえで必ずしも必要なものではない。食事や睡眠、明日生きるためのお金、仕事、そして戦争。それらの「現実」のほうが重要なのは当然だ。だが、そんな「虚構」でも人を感動させることはできる。「なんでもないもの」でも、それに触れた誰かの気持ちを変えることはできるのである。少なくとも、これはフィクションの意義についての一つの答えになるだろう。
そんな当たり前のことを、と思う人もいるかもしれないが、何かフィクションを作る人(特にそれを職業にしようという人)にとってこの問題は意外と厄介で、たびたび真摯に向き合うことを強いられる。それに、世の中の大事なことはだいたい「当たり前のこと」なのだ。

さて、ここで「演技が虚構性を明示的に強調している」というところまで話を戻そう。言わずもがな、この「強調」という働きは作中世界から作中作世界に向けられたものである。だが、果たしてそれだけだろうか?
ここからは《世界の拡張》というキーワードを使って、さらにこの「親密さ」のメタ構造について考えてみたい。



2.2.作品世界の拡張


冒頭で「親密さ」の構造について「入れ子構造」であると表現したが、メタフィクションにおける入れ子構造は、その層の数に制限を持たない。
"「「「絵を描いている私」を描いている私」を描いている私」を描いている……"
というように、原理的には無限に層を増やしていくことが可能である。
このような複数の層どうしの関係は、少なくとも2層のみに限って言えば、メタフィクションに限らずすべての創作物においてあらわれる。「作る/作られる」あるいは「見る(読む)/見られる(読まれる)」の関係性である(ただし、ここではその二者は区別せず「見る/見られる」の関係として扱う)。

以上のことを踏まえると、「親密さ」には「作中世界/作中作世界」の層に加え、実際はさらに「それを見ている層」が存在することが分かる。つまり、「我々観客が『親密さ』を見ている層」である。

このことは何も無理に考えついた思考ゲームなどではなく、映画を見ているまさにその最中に実感として感じうる発見だ。実際に僕は初めて観た時にこうしたことを感じていたし、そのことに思い至るためのファクターはいくつかあった。

まず、そもそも「作中世界のなかで作中作世界を描く」という構造それ自体が、世界を多層的に解釈することを許している。世界が入れ子になっていることを可能性として肯定しているのである。勘の良い人なら、「劇中劇」をやる作品なんだなと分かった時点で、考えるまでもなく「『劇中劇を見る人』を見る私」という関係性に気付くだろう。

そして、決定的なのは「戦争」のモチーフである。
第2部において、登場人物は作中世界で戦争が起こっているなかで作中作を演じているわけだが、まさにその構造は、現実世界と「『親密さ』を見ている観客」の関係とまったく同じ構造を持っていることに気付く。
「いま、僕は、世界のあらゆるところで起きている戦争、それらすべてを無視して、ここでこうして映画『親密さ』を観ているんだ」
という、そこはかとない実感を伴って。

つまり、以下のような対比構造が立ち現われてくる。
「戦争が起こっていながら演劇をしている人たちと観客」
            ↑↓
「戦争が起こっていながら映画を見ている観客(僕たち)」

この対比構造によって、作中世界における出来事が我々観客にとっても真に迫ったものとして捉えられることになる。「親密さ」のなかで描かれていることはその虚構の中だけのものではなく、僕らの生きている世界の反復なのだと。作品を観ている僕らもまた、作品の中に描かれているのだと。そういった作品世界の拡張が、観客の世界認識をも揺るがし、拡張するのである。


3.「虚構性の強調」の問題点


しかしこうした「虚構性を強調する」ような構造には問題もある。この問題はメタフィクションという形態それ自体が抱えた問題でもあるのだが、作品の特性にも関わる話なので触れておきたい。

まず、ありそうな指摘としては「感情移入」が阻害される、という人がいるかもしれない。わかる気はする。しかし、そもそも「虚構性」は直接感情移入を妨げるものではないだろう。これは考え方が逆で、むしろ感情移入を促すための装置として「虚構」は機能する。知育教育のために幼い子どもに絵本を読み聞かせたり、童話や訓話を話すことがあるが、これも「他人に対する共感能力」の発達を促すものとされている。
問題はもっと別のところにある。

第一に、「虚構性の強調」によって起こる弊害として「作者の顔が見える」というものがある。ここでは作者というのは濱口竜介監督のことであり、つまり「作者の顔」というのは「濱口竜介監督の顔」である。「顔」というのももちろん比喩で、要するにその人の人となりや思想、語り口などのことだ。
フィクションがそのなかで「これはフィクションですよ」と示すことで、その作品が作られたものであることを顕在化させ、そしてそれが作られたものであるということは同時に作者の存在を示唆する。当然ありとあらゆる作品には作者が存在するわけで、そういう意味では「虚構性を強調」した作品だけに限った話ではないのだが、しかし「虚構性を強調」した作品においては少なくとも「作者」に注意が向けられるような性格を帯びている。
これの何が問題かというと、作品が単なる作者の主義主張のための「手段」に成り果ててしまいかねない点だ。作者の思想がいたるところに反映されているように「見え」てしまうことがある。そうなると、作者が何か言いたいことをキャラクターに代弁させているのではないか、などという疑念とともに、結果的にあらゆるセリフが説教臭く感じられてしまうことにもなる。

第二に、「演出の阻害」である。「親密さ」の面白いところの一つが「長回し」である。ともすれば水っぽくなってしまいがちなリアルな会話を長く撮ってしまう。あらゆる映画がコンパクトにまとめようとしてしまう部分を、あえてそのまま残すのである。これによって、映画世界の「空気」を写しとったかのような、見えないけれど実体を伴ったものとして感じ取れる演出に成功している。
だが、しかしそういった「リアル」な空気感も、「虚構性の強調」によってフィルターにかけられてしまう。なぜなら「親密さ」はフィクションであり、そこに本当の意味での「リアル」は存在していないからだ。あくまでその「リアル」の実態は「リアルっぽさ」でしかない。
そうしたことも含めて演出意図だというのなら「そうか」と受け取るしかないのだが、やはり私はこうしたリアルな空気感の演出と「虚構性の強調」がそれほど合致しているようには思えないのだ。


4.そして「ハッピーアワー」へ ~ 「物語」から「世界」へ


そして先日、濱口竜介監督の「ハッピーアワー」が公開された。
まさかの5時間17分という大作。「30代女性たちを取り巻く関係性の解体と再構築」という物語も面白いのだが、とにかく物語の描写のサンプリングレートが異常に高くて、そのあまりの濃密さに、物語どうこうというよりもはや《世界》に包み込まれたような感覚。映画を観ている自分の実時間と作品内の時間が同調し、いつの間にか自分がその世界に「いる」ような気にさえなる。冗長性の「冗長性」以外の強みについてのひとつのアンサー的作品だ。

そして、同時に「親密さ」とは全然違う、と感じざるを得なかった。
物語は平地へ。ドラマチックなストーリーはあるが、そこに多層性はない。「見る/見られる」の関係性はもちろんあるが、それを取沙汰すようなこともしない。
監督の強みであった「空気」の演出が、何者にも阻害されず発揮された作品だった。

また、《演じること》についてのアプローチもずいぶんと違っていたな、と感じた。「親密さ」において演技は「役者が役を演じる」という、ある種支配めいた構造を持っていたように感じたが、「ハッピーアワー」におけるそれはきわめて対等なやりとりのように見えた。役者と、その人の演じる役が対等な存在として対話しながら演じているような印象を受けたのである。
「ハッピーアワー」公開に合わせて出版された濱口竜介主著「カメラの前で演じること」においても、脚本の改稿過程での行き詰まりや役者がそのテキストを体になじませていくような場面の記述があった。なるほど、と思う。

「親密さ」と「ハッピーアワー」はずいぶんと違っている。だが、裏を返せば同じことの延長線上にあるということなのだ。同じことを違うアプローチでやってみたり、同じ問題に対する監督のその時々の回答であったり。その共通しているものは過去の作品を取り上げてみても一貫しているように思える。
それを知るためのキーワードは《関係性》なのかもしれないな、と思う。



 ちなみに、現在「ハッピーアワー」は公開中。都内・渋谷のイメージフォーラムでは2/19(金)まで再上映をしているようなので、劇場へぜひ。
まだもうしばらく全国各地でも上映が続きそうなので、この作品と出会える人がまだまだもっと増えればいいなと願っています。
http://hh.fictive.jp/ja/

ああ、神戸行きたいな。



参考文献、っていうか面白いのでおすすめの本です
  

0 件のコメント:

コメントを投稿