2016年1月24日

書評:プラトン『饗宴』

 プラトンの「饗宴」、これはまさにその構造自体が哲学史のダイナミックな流れを象徴するかのようなドラマティックな対話篇である。テーマとなる「エロス」について複数の登場人物たちが宴席で代わる代わる演説を交わし、時折反論を織り交ぜながら前の人よりもより優れた説を述べようと奮闘する、いわば知的ゲームである。前の話者の説の欠点を指摘し、それを補完する形で新たな自説を述べようとするという、この構造が古代ギリシャ以前から連綿と続く大きな思想史のうねりの縮図のようにも感じられ、非常に迫力ある作品となっている。しかもこの作品が今から約2400年前に書かれたものだというのだから驚きである。

 このような感想が出てくる理由が、私が古代ギリシャ文学や対話篇に触れるのがこれが初めての機会であり、この分野に関して無知であることに起因しているかもしれない点で恥じるべきかもしれないが、思わずここに書かずにはいられなかった。

 さて、テーマとなる「エロス」とは何なのか、そもそもそこが登場人物により様々な解釈があるが、そもそもはギリシア神話におけるアフロディテという美の神の子が「エロス」であり、そこからきた言葉であるらしい。最後のソクラテスの議論のまとめ方がとても優れているのでそこから全体の流れを抽出してみる。

 「エロスは美しいものである」という漠然とした前提で話が進んでいたが、ちょっと待て、とソクラテスが言う。「エロスとは自分に欠けた美への欲求なのではないか?」と。もしそうならエロスそのものは美や善たりえないのだ、と。要するにエロスというのは美そのものではなく美醜の中間に位置し永遠に美を追い求める存在なのである。それではここでいうところの「美」や「善」が何かというと、精神的側面においては「知」がそれにあたる。つまりプラトンが言うには「エロス」とは「自分に欠けた知への欲求(=フィロソフィア)」なのである。なんと「エロス」の話かと思ったら「哲学」の話だった! というスケールの大きな驚きを見せ、宴席は幕を閉じる。

 ソクラテス以外の人物の演説・珍説にも大変示唆があり唸らされたがやはりソクラテスは全く別格として描かれていて、一番ドラマティックな要素である。なるほど美そのものではなくそれを求める不断の欲求こそが大事であるのだという、なんとなく私自身が普段から抱いている実感を補強してくれる対話篇であった。人は「善く在る」ことよりも「善くなる」ことそれ自体が善なのではないだろうかと私は普段から考えていて、というのも人はどこまでいっても完璧にはなれず、そもそも「善」を完遂することなど不可能だからだ。自分が「善く在る」という自覚がある人間がいるとするならばそれはただの勘違いで、そこで思考が止まっている証拠なのだ。ちなみに私は「かわいい女の子」よりも「かわいくなろうとする女の子」のほうがかわいいと思えるタイプだが、このこともひょっとするとこの話に通ずるものがあるかもしれない。どこまでいっても「自分には知が欠けている」と考え、永遠に「知(あるいは善、美)」を追い求めようとする、その働きこそが美しい。思考を止めてはいけない。まさにその通りだと私は思う。だがまたその「善」そのものも誰にとってのものなのか、どこまで広い範囲に言及したものなのかなどと考えるとまだまだ考える余地のある問題である。哲学の歴史はまだまだその先長く、それを追っていきたいと思える愉快な饗宴であった。

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