2016年12月6日

おめでた君

 深夜、私が部屋のベッドで寝転がって漫画の『逃げ恥』を読んでいるとドアをノックする音がする。コンコンコンと三回叩くのは弟の隼人だ。「なに?」とだけ聞くと、静かにドアが開いた。入っていいとは言ってないじゃん……と思いながらもチラッと視線を向けると、その隙間から暗い廊下に立つ隼人の姿が浮かび上がる。ニューヨークヤンキースのキャップを目深にかぶって立っている。
「姉ちゃん電気消していい?」
 といきなり言うので面食らうが、隼人が自分の顔を帽子のつばで隠しているのを見て、ひょっとして泣いているのかな、お姉ちゃんにその泣き顔を見られたくないのだろうか、可愛い奴め、なんて憶測を膨らませた私は姉らしく物わかりのいいふりをする。隼人は小学生のくせに鬱っぽくて病気持ちで、つい最近までのまる一年間不登校だったような繊細な子なのだ。
「いいけど、どしたの?」
 私は漫画を開いたままベッドの脇に置いて部屋の電気を消す。すると弟が部屋に入ってきたようで、ドアがパタンと閉じられた。真っ暗になった部屋の中でぼそりと弟が言う。
「ちょっと助けてほしいことがあるんだ。姉ちゃん、おめでた君って知ってる?」
「知らないけど……なんかのゆるキャラ?」
「知らないならいいよ。そいつ、俺と同じクラスの奴なんだけどさ」
「ふん」むしろ姉が弟のクラスメイトなんか知ってるほうが変だ、と思うけど少し焦ったような隼人の口調に私も合わせる。「それで?」
「あだ名なのかなんなのか俺にも分かんないんだけど、みんながそう呼んでるからおめでた君。いつもみんなに祝われてんの。朝学活の前と昼休みにはみんなで両手をクロスして繋いで輪になって、おめでた君の席の周りをぐるぐる回って『おめでとう おめでとう おめでた君』って合唱してて、その光景がちょっと異様で笑いそうになるんだけど、みんなふざけてるって感じでもなくて本当に真剣に祝ってる、心の底からめでたいって顔なの。ちょっと怖くなっちゃってさ、最初は俺もよく分かんないままとりあえず手を繋がされてぐるぐるしながら口パクさせられたんだけど、何が一番おかしいかって言うと、真ん中にあるそのおめでた君の席には誰もいないんだ」
 合唱のくだりでも特にメロディを入れたりせず淡々と隼人は語る。あんまり早口だったので内容を理解するのに少し時間がかかった。
「え? 誰もいないのにお祝いしてんの?」
「やっぱ変だよね」
「変っていうか、異常じゃん」
「だよな」と隼人は安心したように呟く。
「俺、しゃべるとすごく早口になるし、そもそも話せるような友達もいないし。こんなだから、最初はからかわれてるのかなって。みんなが徒党組んで嘘ついて合唱までして俺をびびらせてんのかなって思ってたんだけど、違う。やっぱりみんな本気で祝ってるっぽいし、しかも『おめでた君』ってのは架空の存在でもないみたいで、こっそり覗いた感じ机の中には教科書も入ったままで、ちゃんと下駄箱もあるんだ」
「その子の本名はなんて言うの?」
「それが分かんないんだよ。クラスの名簿には35人分名前があって、教室にある机椅子の数は縦横6×6で36組。空席はそのうち一つだけ。つまり『おめでた君』の名前は名簿にはないってこと」
 私よりも数倍賢い隼人の流暢な証明を聞いて、背筋にぞっと寒気が走る。
「え。え。それホントの話?」
「まだあるんだ」隼人の声は止まらない。「昼休みに手を繋いでぐるぐる回って合唱したあと掃除するんだけど、普通は掃除する前に掃き掃除がしやすいように机椅子を全部教室の後ろに運んでおくでしょ? でもおめでた君の席だけはそのままなんだ。ガタガタガタって数人に運ばれていく机椅子のなかでその席だけは誰にも触れられもしない。というより、みんなあからさまに避けてるみたいなんだ。で俺ちょっと気になって掃除の時間以外にもみんなの様子を観察してるとさ、どうやらクラス全員がおめでた君の机や椅子に触れないように細心の注意を払ってる感じなんだ、まるでそれが汚いモノみたいにさ」
 だんだん語気が強くなり、隼人はいつのまにか息を切らせている。この話の奇怪さとは裏腹に、私はこの暗闇の向こうに隼人の微笑みを見たような気がして途端に気味が悪くなる。話の中身もそうだけど、隼人が突然夜にこんな話をしに来たってこと自体がそもそも謎なのだ。
「ちょっとねえ、もうやめよう?」と震えながら言う私の言葉を掻き消すように、隼人は続ける。
「もちろん見た目は汚くないよ。むしろ綺麗なほうだ、だってずっと使われてこなかった机なんだから。だからたぶんみんながバッチイって思ってるのはそういう目に見える汚れとかじゃなくて違う何かなんだろうなって思うんだよね、どうかな?」
「わかんないよ……」耳を塞いでもかすかに隼人の声は聞こえる。すぐ近くに立っているのだ。
「だよね。だから俺も確かめたくてさ。放課後にこっそり学校に残って、誰もいない教室でその椅子に座ってみようと思ったんだ。いざ夕方の教室に一人で立ってみるとすごく緊張したね。誰も触れようとしない机椅子に触れるってだけでどうしてこんなになるんだろう。クラスメイトに見られたらどうしようとも思ったけど、その罪悪感がいったいどこから来るのか、それも俺には分からなかった。とにかく、俺はその席に座ることで全部はっきりすると思ったんだ」
 そこで隼人の言葉はゆっくりと止まった。急に部屋は静けさに包まれて、壁掛け時計の秒針だけがやたらと響いて耳障りだ。私は泣きそうになるのをこらえながら必死に息を止めていた。口を開くと悲鳴が漏れそうだった。
「そっと椅子に座ってみると、どうってことない普通の椅子だ。当たり前だけど。見た目通り汚れてもないし濡れてもいない。なんだ別になにもないじゃんかと思って立ち上がろうとしたとき、俺は思い出したんだ。いつか通り過ぎざまに見たこの机の中には、教科書が入ったままだったなって。それに、教科書にはひょっとしておめでた君の本名が書いてあるかもしれない。たいてい教科書には学期の始めに名前を書かされるしね」
 ベッドにいる私に、隼人がひたひたと近づいてくる。荒い呼吸を肌で感じた。枕の端をぎゅっと抱き寄せて、目を閉じた。
「そっと机の中を覗き込んで、俺はその中に雑然と挟まれている教科書を見つけた。積み重ねられているというよりは、ひたすら強引に突っ込まれたかのようにも見える。ほとんどの本が折れ曲がってぐにゃぐにゃの地層の断面になってるんだ。とりあえず俺はその中の一冊に、手を伸ばした。少し強引に引っ張って抜き出したそれは国語の教科書で、表紙はぼろぼろに破れてたくさんの文字がいろんなペンで書き込んであるけど、どうやら水で濡れたこともあるみたいで滲んで読めない。ページを開くとぺりぺりと音がして中から砂がさらさらと落ちた。見てみると指にも砂がついていて、どうやら泥がついて乾いた後のものらしい。きっと誰かがいたずらしたんだ。酷いことするよね? 可哀想だよ。そう思って、俺はゆっくりと教科書の裏表紙を見てみたんだ。名前が書いてあると思って。ねえ、姉ちゃん。なんて書いてあったと思う?」
「……知らない!」
 我慢の限界だった。私は泣きそうになるのをこらえながら叫び、同時に部屋の電気をつけた。すぐに蛍光灯がパッと光り、私のすぐそばに隼人が立ち逆光の陰になって私を見下ろしていた。私は言う。
「おめでた君なんて知らないってさっきも言ったでしょ! 帰って!」
 すると隼人はしゅんとして、いつもみたいなひ弱い弟に戻る。さっきまでの鬼気迫る感じはあっという間にどこかに消えてしまっていた。
「ごめん。冗談だよ。おめでた君なんて、本当はいないんだ」
 どこにもいない。作り話なんだと隼人は弁解した。
「……もういいよ」私は急に大人しくなった隼人に毒気を抜かれてしまい、「早く寝な、明日も学校でしょ?」
「うん」
 隼人は一年間のブランクを取り戻さなければならないのだ。《学校》という言葉でさらに憔悴したように笑う隼人は、すっかりうなだれた背中を見せつつ「おやすみなさい」と呟いて、そろそろと部屋を出て行った。
 その間際、申し訳なさげな表情がキャップの下で動くのをかすかに捉えて、私は思わず目を逸らしてしまう。ごめんね、私が隼人を助けることができなくて。ストレス性のホルモン異常で眼球がにゅうっと飛び出ていて瞼も赤く腫れ捲れ上がっているその顔を、私は未だに正視することができない。姉失格だけど、どうしたって気持ち悪いものは気持ち悪い。
 私もまた存在しないおめでた君を祝う輪の中にいるのだろうか。手をクロスして繋いでぐるぐる回りながら合唱している私。
 おめでとう おめでとう おめでた君。

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