2015年2月10日

好きな人の好きなものを、私も好きになりたい。

 好きな人の好きなものを、私も好きになりたい。好きな人の感じる世界を私も感じたい。できるだけたくさんの共通項を持ちたい。って大多数の恋する女の子が思ってると思う。女の音楽の趣味はだいたい元彼の影響だ、なんて話をよく耳にするけど、経験論として実際そういうケースは多い。私の周囲の女の子たちもそうだし、私もそう。
 
 かなえ。
 かなえはどんな音楽を聴くのだろう。どんな小説や漫画を読むのだろう。
 
 私は毎日、学校でかなえのことを見つめる。
 かなえの席は教室の中央あたりにあるのに、本人はまったく目立たない。影が薄いとか、存在が希薄というのでもない。どこからどう見ても、普通の男の子。ただなんとなく、彼がいてもいなくても変わらないような空気が教室の中にあって、目を離した隙にいなくなってしまったのではないかと思えてしまうのだ。だから、私はかなえのことを、確かにそこにずっといるのだと確認するために、視線を絶やさない。
 かなえはよく窓の外を眺める。私の座席は窓際にあるので、その瞬間いつも私はどきっとする。私は慌てて前を向き、黒板を見ているふりをして視界の端にかなえをとらえる。かなえはいつも私のことを見ない。時々さりげなくそっとかなえのほうを向いてみる。それでもかなえは私を見ない。かなえは何を見ているのかな。私も窓の外に目を移してみるけど、そこにはアイロンをかけた淡いブルーのワイシャツみたいにまっさらな空が広がっているばかりで他に何も見当たらない。
 たぶん、かなえはここにいない私以外の女の子を見ているのだ。そう気付いたのは最近になってからだった。

 かなえと初めて同じクラスになって、好きになり始めてから三ヶ月が過ぎた。夏が勢いを増す頃、私とかなえは初めて二人きりで学校に残っていた。
「木島さんはどう思う? 女子達は演劇って意見が多かったみたいだけど」
 かなえと机を合わせて向かい合って座っていて、なんていうか近い! 焦点をどこに合わせればいいのかわかんなくて、でもうつむくのもなんか意識しすぎてる感じが出ちゃうし私はかなえの指を見る。シャーペンをはさむ白くて細い指。
「んー……。私はめんどくさい、かも。演劇」
「だよね。舞台を使う出し物は上演時間が四十分に限られてるから、それに合わせた脚本を探すか作るかするのだけでも時間がかかりすぎる。それに練習のスケジュールを組むのも大変だろうな。ほら、もう三年だし、塾の夏季講習とかみんな行くんじゃないかな」
「そういえば友達も夏季講習行くのがユーウツだって言ってた気が。夏休みの間に練習できないとなると、夏休み明けすぐの文化祭に間に合わせるのは難しいね」
「こればっかりは仕方ないな。受験勉強のために早めに文化祭を済ませようっていう学校の方針だし」
「じゃあ教室での出し物でいくのが無難かなあ? 教室での出し物っていうと……なんだろ。フリマ? はつまんなさそう……」
「まあ簡単だしそれでもいいけど……。他には喫茶店なんかもアリだよね。あとお化け屋敷とか」
「喫茶店、いいね。そこそこ達成感もありそうだし」
「僕もそう思う。成功したかどうかが売り上げの数字ではっきりしてるのもわかりやすいし」
「うん、そうしよう。喫茶店ならたぶん女子達も納得させられるよ。女子たちでかわいい服着ようよ。あ、陶子ちゃんのメイド服姿見たくない? 絶対萌えるって」
「……僕は……なんでもいいよ」
「つれないなあ。ちゃんと考えてよ、君も文化祭実行委員なのにい」
「僕は木島さんと違ってなりたくてなったわけじゃないからね。はっきりいって興味はないよ」
「がーん。相棒がこんな調子じゃこの先が心配ですよ、あたしゃ。まあ、確かにあの時のクラスのノリはちょっと私も辟易したけどね。こういう大事なことをじゃんけんで決めるなっていう。じゃんけんってさ、思考停止した時の決定手段だよね。何でもかんでもじゃんけんで決めるなんて人間性の放棄だよ」
「じゃんけんに参加した時点で結果に文句は言っちゃいけないのかもしれないけどね」
「そういう空気がまたむかつくんじゃん」
「……木島さん、思ってたより変わってるね」
「むう?」
「あ、いや、悪い意味じゃなくて。なんていうか、普通の女子とは違う。うまく言えないけど」
「それって褒めてる? まあ、ありがたく受け取っておくけど」
「ところでさ、木島さんはなんで委員に立候補したの?」
「それは……女子でやりたがってる人もいなかったし、まあいいかと思って」
「ふうん。じゃあ本当は木島さんもなりたくてなったってわけじゃないんだ」
「そうだね」
「安心した。あんまり文化祭に対する温度差なさそうだし、正直むちゃくちゃ助かる」
「こちらこそ」
 よっしゃ。ちゃんと話すのはこれが初めてだけど、なんだか超いい感じじゃん? 全然気にも留められてないと思ってたけど、けっこう好感持ってもらえたっぽい。委員に立候補してほんと良かった。
「今日話さなきゃいけなかったことってこれくらいかな。そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
 机を元の位置に戻すかなえ。私もそれを手伝うけれど、はやる気持ちが抑えられない。まさかまさか。もしかして一緒に下校する流れ? マジ? いいの? っていうかかなえって彼女いないんだろうか? いないんだろうな。というかいないといいな。
 なんて考えていたところに、かなえの携帯電話が鳴る。私は物音を立てないように、その場で停止する。かなえが誰かと話す。かなえの声だけが聞こえる。「もしもし」「うん。どうしたの?」「え?」「大丈夫?」「わかった。今から迎えに行く」「うん。いま話し合いが終わったところだから」「うん。じゃまた後で」
 緊張で喉がはりつくかと思ったひととき。私はかなえの電話の相手が気になったけど、どうしても聞くことができなかった。
「ごめん、木島さん。ちょっと用事ができたから、先に帰ってよ」
「そっか。わかった」
 私はものわかりのいい女を演じた。やわらかい笑顔をつくって、早足で廊下を曲がって消えてゆくかなえに手を振った。
 嘘でしょ……。だけど頭の中で膨らんでいく想像を止めることができなかった。かなえの今の電話の相手は、もしかして。でもそんな噂は聞いたことがない。そうだ、こんなのただの想像だ。だけどその想像を否定できるほど、私はかなえのことを知らなかった。私はかなえの後を追いかけた。たぶん知りたくなかったと後悔するかもしれないけど、どうせ後悔するなら後より今のほうがいい。
 一段飛ばしで階段を下りるとちょうどかなえの背中が見えた。壁に隠れながら、かなえが保健室へ入っていくのを見た。
 嘘……。
 全身から力が抜ける。私の想像が正しかったのだ。
 かなえは、山岸陶子と会っている。

 山岸陶子は私やかなえと同じクラスだけど普段はほとんど見かけない。彼女は保健室通学している。詳しいことは知らないけど、幼い頃からよく貧血で倒れていたらしい。そして何より、綺麗な人形みたいに白くて細くてやわらかくて可愛い。
 三年の始業式のあとの自己紹介の時、教室の誰もが息をのんだ。彼女のか細い声を聞き取るためには静寂を守らねばならないと、誰もが感じていたかのように。それは教室を不思議な空気にさせた。その空気は彼女の神秘性を強調し、誰もが彼女に見とれた。私でさえ、そうだった。その後しばらくして全然教室に来なくなって、その彼女の病弱さがさらに彼女を綺麗に見せた。
 だけど私は彼女のことが気に入らなかった。というか、大半の女子は彼女のことをねたんでいたし、嫌っていたと思う。かなえは私のことを「普通の女子と違う」なんて言ったけど、そんなことない。私だって女のクソコミュニティに溶け込むクソの一部だ。

 彼女が一度体育の授業に参加したことがあった。
 案の定、授業が始まってしばらく経った頃に彼女は急にグラウンドにへたりこんでしまった。その様子を見ていたにも関わらず無視した女子が何人かいた。こそこそ話しながら何か笑っている。たまたま近くにいた私は仕方がないので彼女に近付いて声をかけた。
「大丈夫?」
 そんなわけなかった。彼女は舌を出して喘ぎ、目はどこにも焦点が合っていなかった。それに汗の量が半端ない。私は先生にこのことを伝えて、すぐに保健室まで運んだ。
 保健室の先生には授業に戻るよう言われたけれど、なんとなく不安だったので彼女が目を覚ますまでは側にいようと思った。貧血でこんなに酷い症状になるなんて知らなかったのだ。
 彼女が寝かされたベッドの横で、私は彼女の顔をじっと見ていた。黒い髪をかき乱して苦しそうにうなっていても、それでも彼女ははっとするほど美しかった。
 ねたましい。その彼女の病気でさえ羨ましいと思えてしまう。
 そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。彼女はあまりにまぶしすぎて、周囲の人間の心のなかに濃く深い影を作ってしまう。山岸陶子なんて消えてしまえばいいのに。この小さな鼻も口も、まるい目も、つやのある深い黒の髪も。全部むちゃくちゃにしてやりたい。
 保健室の外からは、グラウンドではしゃぐクラスメイトの声がきれぎれに聞こえてくる。ピーッと、先生のならす笛の音が響いた。私は自分がいつの間にか椅子から立ち上がって彼女の首に手を添えていたことに気付いた。慌てて手を離して、また椅子に腰掛ける。私は、なんてことを……。
 しばらくそのまま俯いていた。すると声が聞こえた。
「岬……ちゃん? だよね。木島岬ちゃん」
 驚いて顔を上げると、彼女が目覚めて腰を起こそうとするところだった。
「ちょ、ちょっと、いきなり動くとよくないよ。寝てなって」
「ありがとう。でももう大丈夫だから」
 彼女はそう言うとのそりと上体を起こして微笑んだ。だいぶ元気にはなっているみたいだけど。
「岬ちゃんが運んでくれたの? ありがとう」
 汚れのない笑みだった。私はそんなふうには笑えない。
「まあ、そりゃ目の前で倒れられたら、当然これくらいは」
 ま、無視してた奴らもいたけどさ。
「というか私の名前、なんで知ってるのさ。会ったのたぶんこれで四回目くらいじゃない?」
「え? だってクラスメイトだし。覚えるよ、そりゃ」
 驚いた。きっと彼女は授業に出る一回一回のあいだに、必死でクラスメイトの顔と名前を一致させているのだ。いかにも天使的な振る舞いに、また心がすさんだ。
「……クラスメイトだなんて、みんなは思ってないよ」
「えっ」
「特に女子から嫌われてるよ、あんた。さっきあんたが倒れたときも、周りの女子みんな無視してたから」
 言ってから、しまった、と思う。必要のないことまで口にしてしまった。これはさすがに言い過ぎだ……。
「知ってた」
 だけど、彼女は笑っていた。
「クラスの女の子たち、みんなどこか私を避けてる感じがしたし。私、こんなだから……みんなに迷惑ばっかかけちゃうし、それで疎まれてるのかな……。でも、別にいいんだ」
 彼女は私が膝の上に置いた手の上に、自分のてのひらを重ねた。そっと触れるような重みをのせて。
「岬ちゃんは、私を無視しなかったから」

 私は保健室の前で立ち尽くしていた。部屋の中からは二人の会話のような音がかすかに聞こえてくる。ああ、この細い声はやっぱり、山岸陶子のものだ。私はふつふつと沸き上がる黒い気持ちを感じた。ここで私が山岸陶子をむちゃくちゃに壊してやったらどうなるかなあ? なんて、想像をしてしまう。私は昂ぶる気持ちを抑えて、そっと保健室のドアに耳をあてた。私は覚悟を決めなければならない。
「……で、本当に大丈夫なの?」
「うん。もう平気。っていっても、まだちょっと足元ふらつくけど……」
「平気じゃないじゃんか……。おぶろうか?」
「おんぶは……恥ずかしい。肩だけ、貸してくれれば、いい……」
「そうか。じゃあそうする」
「かなえ君。文化祭の準備のほうは順調? 委員に選ばれたんでしょ」
「うん。まあなんとか。相棒ともうまくやってる」
「あの、その、相棒、って、誰」
「言ってなかったっけ。木島さんなんだけど」
「岬ちゃん!? なんだ、そうだったんだ……」
「え? 木島さんのこと知ってんの?」
「うん。て言っても一回しか話したことないんだけどね。ほんとに、すっごくいい子なんだよ。私なんかより、ずっとまっすぐで、優しい子。だから、文化祭もきっと楽しくなると思う。いいなあ」
「へえ、そうなの?」
「うん。ああ、よかった。岬ちゃん相手だったら、浮気しても許してあげるかも」
「馬鹿。そんなことしねえよ、絶対」

 私は我慢できなくなって、保健室のドアから離れた。どうしても嗚咽が漏れてしまいそうになった。私はハンカチで顔を覆いながら昇降口に向かって駆けだした。
 呼吸がうまくできなくて、上手に走れない。手足の動きがむちゃくちゃだ。それでも私は走り続けた。絶対に、あの二人に見られない場所に。どんなに叫んでも聞こえないくらい遠くに逃げたかった。
 最悪だ。私って、ほんと最悪。
 わんわん泣きながら走って、気がついたら知らない場所にいた。林の中だった。ずいぶん遠くまで走ったつもりでいたのに、振り返ると学校はまだ小さく見えていて、急に何もかもがバカバカしくなる。私は青い雑草の上に倒れ込み、仰向けになった。太陽の光が涙で屈折していやにきらきらして木漏れ日を彩る。私にはまぶしすぎて、そっと目を閉じる。
「ばかやろーーーーーーっ!」
 声は誰にも届かない。私だけが聞いている。

 かなえの好きなあの子を、私は好きになれない。
 私の嫌いなあの子を、かなえにも嫌ってほしい。
 そんな私が、とことん嫌になる。

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