2015年2月7日

強固な殻

 本当に怖いのは傷つくことじゃなくて他人を傷つけてしまうことだ。傷ついたときには堪えることができるけれど、他人を傷つけてしまったらどうしようもない。ひたすら謝ることはできても、謝ったってどうにかなるわけでもないのだ。そういう意識が次第にふくらんで、何気ない言葉や行動が知らず誰かを傷つけているような気がして、気がつけば人と話すことができなくなっていた。何も傷つけたくないのは傲慢だとは思う。人の生は、何かの犠牲の上に成り立つものだ。だけど、今の私の心では、そんなあたりまえの考え方でさえ、遠くに感じてしまう。たとえ傲慢でも、どうしても他人を傷つけてしまうことが怖くて怖くてたまらないのだ。私の目はいま、私の内面だけを照らして、でも、それも近すぎてよく見えない。

 高校生の頃、家族でテレビを見ていた。「現代の若者の病理をあばく」と題した特番でひきこもりの男の人が映っていた。なんだか汚らしくて猫背で、肌がブツブツの二五歳。番組の内容については特に印象に残っていないんだけど、その時母が「ひきこもりってほんと最悪だな。親の迷惑なんてひとかけらも考えてないだろうし。なんのために生まれてきたんだろうね」って言ってたのだけはこの先一生絶対に忘れない。
 はぁ?テレビのひきこもり男が親の迷惑を考えてないなんてお前の勝手な想像だし、なんのために生まれてきたのかなんて言う資格あんのか?大きなお世話だろ?それにひきこもり男の事情についてひとかけらも想像できてないのはむしろお前のほうじゃないのか?そんな母の言葉を受けて曖昧に頷いた父にも幻滅だ。私がもし将来ひきこもりになってもこの人たちは同じことを言えちゃうんだろうか?そうでないとしても、実際にその時になってみないと正しい反応ができないなんて想像力がなさすぎるし、配慮に欠けるし、あまりに無神経すぎる。どのみち私にとってはおぞましい将来。そんな考えがぐるぐる巡った。私は悲しくなって、その番組は最後までなんとか見たけれど、その後一人ベッドでむちゃくちゃに泣いた。
 そんなふうに考えていた「架空の将来」だったはずの想像が、そうこうしているうちに現実になっていた。結局、親の無神経に傷ついた私は、自分はせめて人を傷つけないようにしようと考え、そして自分が無神経であることにも堪えられなくなってしまったのだ。

 いつも夕方六時ごろになると二回小さなノックの音がして「夕飯ここに置いとくから」と扉の向こう側から声、それから足早に去っていく足音が聞こえる。その日も同じだった。私は足音が完全に消えるのを確認してから扉を薄く開けて、床に置かれていたカレーを部屋に入れた。ほぼ換気しないせいでもともと饐えたような匂いのする部屋にさらにカレーの強い匂いが充満して、食欲なんて微塵も沸かないけれど、それでも食べないと死んでしまう。私はまだ生きたいと思える。だから私はいつものようにデスクのキーボードを端に寄せてカレーを空いたスペースに置いた。
「あれ?」
 よく見るとスプーンがなかった。私が取り忘れたのかと思って再び扉を開けて廊下を見渡すけれど、何も見当たらない。そうか。母がスプーンを付け忘れたのだ。まあたまにはそんなこともあるだろうと思う。これくらい、もう一度母に持ってきてもらうか、そこまでしてもらわなくても私が自分でキッチンまで取りに行けばいいのだ。でも、あれ、なんだろ。おかしいな。涙が出てきて止まらない。私は傷ついている?昔から私は実感と思考とのあいだに大きな隔たりがあった。「人の生は何かの犠牲の上に成り立つものだ」と頭では考えていながら心では「誰も傷つけたくない」と感じていたように。今回もそうだろうか?私は母に軽んじられていると感じている?
「ふっ……ううう」
 喉の奥が痙攣して呼吸が乱れて、思わず声が漏れてしまう。こんなことで泣いているところを親には知られたくない。私は床に落ちていたタオルを力いっぱい噛みしめて、そのままベッドへ身を投げた。気が済むまで泣こうと思った。

 泣き止んだというよりは泣き疲れてベッドを出た。夜の零時をまわる少し前だった。目の周りがかゆい。普段使わない卓上鏡を出して見てみるとそのあたりが赤く腫れぼったく、目は充血していた。ああ、こんな顔を見られるわけにはいかないな。洟をかんだら部屋の臭いに気がついて、カレーのことを思い出す。忘れていた。デスクの上のカレーは当然のようにもうかぴかぴに固まっていて、皿も冷え切ってしまっていた。仕方がないから今日はもう晩ご飯はなしにするか。そう思ってカレーをそのまま部屋の外に置くと、零時ちょうどになって足音が近付いてくる。たぶん母だ。食べ終わった食器を片付けにきたのだろう。扉の前で立ち止まった母がつぶやく。
「ちゃんと食べないとダメじゃない……。まあ、いいけど」
 それから、ずざ、と乱暴に皿をひきずりながら持ち上げて不機嫌そうにどしどし歩き去って行った。

「ちゃんと食べないとダメじゃない……。まあ、いいけど」
 この言葉が私の脊椎を打ち抜いた。全身が麻痺したみたいに動けなくなってその場にへたり込んでしまう。失禁した。あんなに涙が出たのにまだ水が出るのかと感心するくらい。しばらくそこで私は動けずに固まっていた。生きようという気持ちがごっそり根こそぎ削がれた気分だった。
 母は最後まで自分がスプーンを忘れたことに気付いていないし、しかも「いいけど」なんて、私が一番聞きたくない言葉だったのに。私がカレーを残したことに対して「いいけど」と許しているつもりなのかもしれないけれど、私がカレーを残した原因は母にあるのだということについて全く想像が及んでいない。返す言葉もないほどに、私は絶望した。
 私はゆっくり立ち上がった。おしっこをたっぷり吸ったスエットとパンツを脱いで、ゴミ箱に放り込む。代わりに高校生の頃に使っていたジャージを穿いて、部屋の扉を開けた。まぶしさに一瞬、目がくらむ。

 父はもう眠っているらしく、母が居間で一人くだらないバラエティを見ていた。深夜らしい間延びしたトークが私をいらだたせる。母の背中はなんだか眠たそうだった。だったら早く寝ればいいのにと思う。
「お母さん」
 丸い背中に声をかけると母は私を振り返った。私の目を見て、ぽかんと口を開けた姿がとても間抜けだ。
「どうしたの。幽霊でも見たような顔して」
「え……?なに、あんた。どうしたの」
 私はキッチンから持ってきたスプーンを右手に握りしめ、それを母に示した。
「カレーはね、スプーンで食べるんだよ。特に日本では」
「え?」
「え、じゃねーよ!つかテレビ消せよクソ野郎」
 床に落ちたリモコンを拾い上げてテレビの電源を切る。しんと静まりかえって、母は急に慌てだす。
「ちょっと、あんまり大きな声ださないでよ。ほら、お父さん今寝てるから」
「は……?」
 ちょっと信じられないくらい空気が読めない母に私はつい堪えかねてビンタをかます。そのまま床に押し倒して馬乗りになる。首にスプーンを突きつける。
「あのさ。頼むから。せめてもうちょっとだけ、私のことを考えてよ!」
 そして私は泣く。母はまだ、寝ている父のことを気にしている。

 そういう可能性について想像してみるけど、結局やっぱり、ダメなんだ。あの母親じゃ、何を言っても無駄だと思ってしまう。それに何より、私にはそんな大それたことは、やっぱりできそうにない。
「お母さん」
 私は握りしめたスプーンを後ろ手に隠して声をかける。テレビの前で母が振り返る。やはり唖然とした表情だ。
「どうしたの。幽霊でも見たような顔して」
「やだあんた、どうしたの。こんな時間に」
 そういえば、私はいったいなんのために人を傷つけないようにしていたんだか、忘れてしまったな。結局それは他人のため? 自分のため? ……よく分からない。今日はあまりに疲れすぎてしまった。
「ごめんねお母さん。やっぱり私、お腹空いちゃった」
 私は誰も傷つけたくない。たとえそれが傲慢でも。もう、そういうふうにしか生きられない。

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