2015年2月18日

閉ざすより深く暗く

1.

 教室の扉を開けて、見とれた。ひとり窓際の席で机に頬をつけてまぶたを閉じる今城寧々の髪は、開け放たれた窓から吹き込む風に散り、花のようにかすかに香る。まどろむ少女の姿は、昼過ぎの生暖かい空気ととてもよく似合っていた。微細な埃が風に舞い、カーテンの隙間から射す陽光にきらきらと輝く背景。色の白い肌に深く黒い長い髪、遠くからでもわかる長い睫、やわらかな脚の輪郭。その光景はしかし神秘的ではなく、むしろ強い日常性を帯びていた。それでいてどこか詩的で、まるで映画「Tokyo.sora」のワンシーンみたいだと思った。声をかける前に思いとどまって、そっと彼女に近付くと、すうすう寝息が聞こえる。
 触れたい。このきめ細かく柔そうな肌の起伏を指でそっと撫でたい。ぷっくり膨らんだまぶたがとても愛らしく映った。心臓の鼓動が速くなる。こぼれそうになる欲望を僕は必死でこらえる。
「起きろー」
 僕は気だるげに言った。だけど反応はない。春眠暁を覚えず、か。肩をゆすって起こしてやればいいのだけれど、彼女のシャツ一枚ごしにうすく透けた肌と下着の色が、僕の平静を奪う。そうやってうだうだ立ち尽くしていると、なんの前触れもなく彼女はぱっちりと目を開けた。
「おや。委員長じゃないか」
「おはよう」
「ん、おはよう……って、もしかして私、寝てた?」
「夢見はさぞよろしかったようで」
「……そっか」
 彼女は伸びをして、一つ大きなあくびをついた。それから風に遊ばれた髪を手櫛で整える。指の間を、艶のある髪が抵抗なく流れていく。
「五限は講堂で学年集会。早く行かないと遅刻するぞ」
 時計を見ると、チャイムが鳴るまであと五分を切ったところだった。もうみんな講堂に集合している頃合いだ。焦りはしないが、急がなければならない。
「今はだめ」
「なんで」
「……言いたくない、っていうのはダメかな」
「ダメ。理由が言えないなら、今すぐ来てくれないと困る」
「誰が?」
「僕が。クラス委員長の責任がある」
「なるほど、それじゃあ仕方ないなあ……。仕方ないから話すよ。誰にも言わないって、約束してくれる?」
 僕は頷く。彼女はまぶたを閉じて言った。
「想像がくるんだ」
 まるで大した秘密でもないかのように、あっさりと彼女は自分について語りだす。いったい心を開いているのか、閉ざしているのか。カーテンがフレアスカートのようにふくらんで、なんとなく、空気が変わる。そして僕もその言葉を咀嚼するように、繰り返す。よくわからないけれど、わかろうとするふりをする。
「想像が、くる」
 唐突で、不思議な響き。僕も彼女をまねてまぶたを閉じてみる。闇が見える。そこに、彼女の声だけが聞こえる。
「世界の隙間を、人間の想像力が満たしている。そうやって世界は完成した形を保っているんだと思う。私には、私の見えないところ、現実の隙間を想像で埋めていくくせがある。それ自体は普通のことだけど、私の場合それが強すぎる。想像しすぎてしまって、本当に集中したい事柄に身が入らないことがよくあるんだ」
「そのことに、まぶたを閉じることが関係してるんだね」
「うん。そうすることによって私は想像の機能をオフにすることができる。その間だけ、余計なことを考えずにすむ。私にとっての儀式みたいなものなんだ」
「なるほど、それでそのまま寝ちゃったわけだ」
「そうみたいだ」
 僕がまぶたをそっと開くと、彼女も同じように開いていた。目が合う。
「想像しすぎるくせ、っていうか、病気なんだけど」
「病気って、そんな大げさな」
 僕は笑う。彼女は目をそらして、視線を窓の外に投げた。
「今城さん。そろそろ行かないと」
「わかってる。もう大丈夫」
 彼女は半分脱げていたスリッパを足先にひっかけて、ゆっくりと立ち上がった。彼女の太ももには、椅子のあとが筋になって赤く残っていた。窓を閉めて、教室を出た。
 彼女はいきなり講堂とは逆方向へ歩き始めて、僕はちょっと焦る。
「ちょ、ちょっと。どこ行くんだよ」
 彼女は振り返って、「トイレ」と短く答えて駆けてゆく。すぐに角の向こうへ曲がって見えなくなった。女子トイレの前でじっと待つわけにもいかないし、時間も時間なので先に講堂へ向かうことにした。
 歩いている間、僕は彼女のことを考えた。今城寧々。ルックスも成績もいい彼女がクラスの中で浮いている理由が、なんとなく分かった気がする。だけど僕はそんな彼女のことが好きだ。僕も彼女のように、現実の隙間を想像で埋めてみようと思った。そしてチャイムが鳴る。
 彼女は五限の最後まで講堂に姿を見せることはなかった。



2.

 二週間後、彼女は軽い怪我をした。僕はその様子を一部始終目撃していた。バスケットコートの隅で、まるで試合とは関係ないかのような佇まい。存在感が希薄なのに、やけに白いシューズだけが目立っていた。そんな彼女とは裏腹に、試合は激化する。きゅっ、きゅっと小気味いい音が体育館に響き渡っている。その時、唐突に彼女に異変があらわれた。何かに怯えたような表情で辺りを見回して、うずくまる彼女。僕はその時、「想像がくる」という彼女の言葉を思い出していた。そして、そこへ彼女のチームメイトから、苦し紛れのパスが飛んだ。当然ボールなど見ていなかった彼女は、ワンバウンドしたボールに頭を打たれて、後ろ向きに転倒した。
 放課後、僕はクラス委員長として保健室に運ばれた彼女の様子を見に行くことになった。どうやら本当に彼女には友達がいないらしい。ボールをぶつけた当人さえ謝りに行かないのだから、相当なものだ。
「失礼します」
 そう言って保健室へ入ると、養護教諭さんが迎えてくれた。事情を説明して、彼女が寝ているベッドへと案内してもらう。彼女はベッドに座って、まぶたを閉じている。眠ってはいないみたいだ。カーテンに囲まれて、僕らは再びふたりきりになった。
「よかった。まだ帰ってなかったんだね」
「そろそろ落ち着いたから帰ろうと思っていたところだよ」
「それじゃあ、ギリギリセーフかな」
 僕は微笑みかける。
「それより怪我は大丈夫?」
「平気。どうってことない」
「それを聞いて安心した」
 僕は教室から持ってきた彼女の通学鞄を手渡した。それから、今日配られたプリントの類いも。彼女は一通りそのプリントに目を通すと、綺麗に端を揃えてクリアファイルに収め、鞄に入れた。その間、僕はじっと彼女の所作を眺めていた。
「委員長、まだ何か用?」
「うん、僕は今城さんと話がしたかったんだ。そのために来た」
「話って、どんな?」
「世界の隙間について。あれからしばらく考えていたんだ」
 僕が隙間という単語を口にすると、彼女はいくらか興味を持ったようだった。彼女はベッドから脚を下ろして、腰掛ける姿勢に居直る。顔と顔とが近くなる。淡泊な目が僕を見る。なんだか透かされているみたいだ。
「それで?」
「たとえば、まぶた」
「まぶた?」
「まぶたの裏側には、小さな王国がある」
「……へえ」
 感情表現の起伏の小さい彼女が驚いているのがはっきりとわかった。真剣なまなざしに変わる。表情が硬くなって、僕の話を正面から聞いている。
「僕らはまぶたの裏側がどんなふうになっているか、認識することができない。あまりに近すぎるし、それに、まぶたを閉じてその裏側を見ようとした時、そこに光はないからだ。その現実の隙間を、僕は想像で埋めた。そこには小さな王国がある。喧嘩も戦争もなく、ただ穏やかな日々がある。目に見えない、小さな小さな生き物たちのテリトリー」
 彼女は小さく深呼吸をした。そしていろんな事について考えを巡らせているみたいだった。
「すごいね。近すぎて、気付かなかった。そんなところにも隙間があったんだ。委員長、どうしてそこに目をつけたの?」
「名前、かな」
「名前?」
「僕の名前。島田相っていうだろ。下の名前がアイで、漢字のパーツにも目があるんだ。それで人よりも目について考えることがちょっと多いせいかもしれない」
「へえ。委員長、アイって言うんだ。いい名前」
「やっぱり知らなかったんだな。委員長、じゃなくてちゃんと名前で呼んでくれよ、今城寧々さん」
「わかったよ、アイ君」
 呟いて、それから彼女はまぶたを閉じた。例の想像の機能をオフにする儀式、ではなさそうだ。一瞬考えて、すぐに納得がいく。そうか、彼女はいま、まぶたの裏の、小さな王国を見ているんだ。想像をしているんだ。
 僕もまぶたを閉じる。僕の王国に思いを馳せる。
 僕は黙ってそのままそっと彼女と唇をあわせた。吸い寄せられるように、ごく自然な流れで。柔く触れる感覚。すぐに離すと、その瞬間に唇をあわせた感覚が溶けて消えてしまいそうになるほど、あっという間のキス。見ると彼女は耳まで紅潮させていた。きつく睨まれる。
「こんなことしてただですむと思わないでよ。責任、とってもらうからね」
 彼女はベッドから降りて立ち上がり、鞄を肩にかけた。肩にかかる髪をふり乱しながら、足早に保健室を出て行く。しんと静まり、カーテンの中で独り。もしかしたら、とんでもないことをしてしまったかもしれない。なんて、とぼけたことを僕はまだぼんやりと考えているのだった。



3.

 朝、学校に行くと靴箱に手紙が入っていた。便箋も封筒も白い簡素なタイプで、女の子らしいとか男の子らしいとかいう以前にそもそも学生っぽさがないけれど、筆跡は女の子のものだった。送り主の名前が書かれていなくても、それが誰だか僕にはわかる。僕が知っている女子の筆跡は、今城寧々のものだけだ。
 僕は手紙に書かれていたとおりに、放課後を待って旧校舎三階の女子トイレを訪れた。ここ数年間誰も使っていないはずなのに、饐えた匂いで充満していた。換気するためにトイレの奥にある小さな窓を開けていると、足音が近付いてくるのがわかった。僕が振り向いたところで、ちょうど彼女の姿が見えた。
「来てくれたんだ」
「来ない理由がないからね」
「よく言うよ」
 彼女はからっぽな笑顔で言った。それからトイレの中へ、ゆっくりと歩いてくる。足音が、声がこもって反響する。
「私がなんのためにアイ君を呼び出したか、わかる?」
「僕はその理由を知るためにここへきた」
「あはは。いいよ、教えてあげる」
 彼女は僕の目の前で立ち止まった。あと一歩でも近付けばぶつかってしまう。それでも僕は金縛りにあったみたいに背中に壁をつけたまま動けない。吐息がかかる、呼吸がわかる、あやうい距離。彼女は壁に手をついて、背伸びをした。彼女の膝が僕の股の間に割って入ってくる。彼女の口が、僕の耳のそばに寄る。
「ふれて」
 それは何気ない吐息のような囁きだった。生暖かく淫靡な言葉は僕の耳をくすぐり、理性を刺激する。壊れそうになる。一瞬で心臓が暴れ出す。鼓動が高鳴り、血管が悲鳴をあげる。じんわりと、全身に汗がにじむ。
 彼女はセーラー服の真っ白なスカーフをほどいて、襟からするりと抜き取った。それを僕の頭に巻き付ける。僕は抵抗しない。なすがままにされる。視界が完全に遮られ、完全な闇になる。彼女は僕の頭の後ろで、器用に結び目をつくった。
 僕はまっすぐ右手をのばす。布地越しに、柔らかいものに触れた。ごわつく下着のレースの凹凸が、シャツ越しにわかる。
「やめて」
 彼女は僕の手首を掴んで、触れた部分から遠ざけた。ぎりぎりと音がしそうなくらい強い力だ。
「勘違いしないで」
 抑揚のない言葉に、ぞっとする。背筋にひんやりとした鉄棒でも突き刺されたような感覚。僕はようやく、この状況が尋常ではないことに気付く。急に不安が襲う。
「今城さん……?」
 彼女は無言で僕の手首を持ち上げ、肩と同じくらいの高さに達すると、指先に何かがふれた。ビー玉のような小さな膨らみ。僕はすぐに気付く。これは、まぶただ。眼球を覆う薄い皮膜。
「わかる? 私の小さな王国」
 ふれたまぶたは小刻みに脈動していた。深呼吸をしてから、僕はそれを十、数える。
「ああ、わかる」
 僕の声は震えていた。気付けば足も。かちかちと歯が鳴る。開けた窓からはやけに冷たい風が吹き込んで、僕の首筋をなぜてゆく。嫌な予感を察知するのとほとんど同じ瞬間に、彼女は僕の手首をぐいと引き込んだ。
 嘘みたいにあっさりと。突き抜けてしまえば抵抗は小さく、指はずぶずぶと奥深くへ沈んでゆく。生卵を突き破るような生々しい感覚が、せり上がる吐き気より遅れて訪れた。どろどろと熱い粘液が指先から肘へ、伝っては落ちてゆく。指はそこから逃げ出す術を知らない。手首は依然、強く握られている。
 僕はその時になってようやく悟る。自分が何もかも勘違いしていたことに。彼女は本当に、自分の想像力に窒息していたのだ。彼女にとって、まぶたを閉じる行為は、とめどない想像の蓋を閉じるための最後の手段だったに違いない。それくらいぎりぎりのところで、彼女は息をして、生きていたのだ。彼女が自身を病気だなんて称したとき、僕は笑って受け流したけれど、事実そうなのだろう。それなのに僕は、まぶたの裏側にも王国があるだなんて、思いつきで、軽い気持ちで……。この今城寧々の首を絞めたのは、僕なんだ。
 彼女はもう、まぶたを閉じても、自らの想像から逃れることはできない。
 だから、こうするしかなかったんだ。
 僕の指が、空いた穴からゆっくりと引き抜かれる。ぬるぬるした感触。意識が飛びそうになる。彼女は僕の手を離した。腕は行き場をなくして、だらりと垂れ下がった。ふいに頭を縛るスカーフが緩まり、数時間ぶりとも思える光に、目が眩んだ。
 すぐに視界が正常な色彩を取り戻す。真っ白なタイル張りの床もシャツも、すべてが赤黒い潮の飛沫に侵されていた。
 これが正常? もちろん。その通り。
「責任、とってよ」
 そうだ。僕には責任がある。僕は指先を彼女のもう片方のまぶたへ運んだ。白く小さなふくらみに、紅の印が一点。身体の震えはもうない。これは、僕がやらなきゃいけないことだ。
 今度こそ。僕は自分の力で、指をそこに押し込んだ。
 瞬間、はじけた。不安も後悔も思慕も理性も思い出のキスも、なにもかもすべて一緒に音を立てて消える。
「王国は滅亡した! これで私はやっと、現実に生きられる」
 彼女が笑う大声の反響。僕が知る限り、初めての彼女の心からの笑顔。彼女の笑いはいつまで経ってもおさまるところを知らず、腹を抱えて床に転げ回った。
 その様子をずっと眺めているうちに僕もなんだか笑えてきて、仕方がないので赤いものを見ていた。飛沫する血潮のシャツに点々と汚れタイル張りの床の溝に沿って川のように排水溝に流れて落ちる冗談みたいな現実。

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