2014年11月18日

人生は三度ある

 人生は何か一つのことを極めるには短すぎるとか言う人もいるけど僕はとにかく漫画を描くことに打ち込んできた。押しても引いても人生は一度きりだからだ。たとえ道半ばで命果てようとも、いろんなことに手を出して全部中途半端になるよりはましだ。中途半端なものはできるだけ少ない方がいい。それに何より僕は漫画が好きでしょうがなかったのだ。子どもの頃から親が読む漫画を読んで友達の漫画を借りて、それで飽き足らずドラゴンボールの下位互換みたいな漫画を描き始めたのが小学生の頃だ。その頃からずっと描き続けた僕の漫画は手前味噌で申し訳ないけどわりと面白い。僕の作品はしばらく鳴かず飛ばずだったけれど何度か短期の連載も持たせてもらえるくらいの人気はあったし、デビューしてから七年間経ってようやくメジャー誌の二番手くらいの立ち位置にまでこぎつけることができた。これは僕の中では大ヒットと言ってもいい。僕史上初のアニメ化だって余裕の射程圏内だ。だけどそれでも一般読者の知名度はまだまだ低いしこれからだ、というところで、僕は死ぬ。

 死ぬ、という表現が正しいのかどうか僕には判断がつかないけれど便宜的にそう呼ぶことにする。というのも僕は生きていたのだった。さっきまで必死でペン入れしながら死んだはずの僕は全身が温かい液体に包まれた胎児になっていて、僕は自己というものが目に見えない魂というかたちで存在していることを、確かに実感する。魂というのは例えるなら完璧な空白、イメージしにくいけど何もないところに「何もない」がある、その「何もない」ところが魂そのもので、形なき形というとちょっと格好良いかもしれない。死んで初めて実感した魂にちょっと僕は感動して、でも泣けない。涙腺とかまだちゃんと完成してないのかも、と思うけど、それだけじゃない。たぶん魂と肉体はきっちりかっちり連動しているわけではないのだ。魂が感情とか思考とか肉体に及ぼす影響というのは案外少なくて、魂だけはちょっと遠いところにある。たとえばバニラが好きな魂だったらアイスのバニラかチョコミントで悩んだときになんとなくバニラを選んでしまうとか、そういう程度の影響力なのだ。とにかく輪廻というものは実在した。そして人生は一度きりじゃなかった。その信じがたい事実にけっこうショックを受けて、また泣きたくなるけど泣けない。

 それから二度目の人生で大きくなった僕は中途半端にいろいろなことに手を出すことになる。小中学校の頃サッカーでそこそこいい選手になったけど病気で脚を切ることになって挫折、それから囲碁を始めてまたこれもいい線行ってたんだけどその頃できた彼女に誘われた宗教団体に入信してそっちの活動が忙しくなったせいで辞め、一度死んだ体験談とか適当な話をしているうちに大学を卒業して十年経った頃に宗教団体の幹部候補になる。だけどその団体自体は全然大きくならなくて、それというのも教祖の頭が固くて面白くないのだ。もっと柔軟に適当なことを詭弁かまして面白おかしく、都合のいいように喋ればいいのだ。もっとも細々とやっていくのがその団体の方針だったのかもしれないけれど、そういうのが性に合わなくて僕は幹部の座を蹴って独立し、新しい宗教団体の教祖になってみるけど、思ったようにはいかなくて、案外あの教祖はすごかったんだと痛感させられる。細々とでも人々の信頼を十年くらい得続けるには詭弁や面白おかしいことだけでは通用しなくて、やっぱりと言うか、滲み出る人柄とか、はたまた人柄を滲み出させる才能とかが重要なのだ。あいまいな都合の良いことを適当に吹聴することにちょっと飽きてきたこともあって、僕は青年海外協力隊での活動を始めて、偽善じゃなく本当に心の底からの善意で行動できる人間がいることを知る。その職場で知り合った天使みたいな女の子と恋人同士になった僕は心が洗われた気分になって、打ち明ける悩みとか今までのあくどい行為のことは何でも受け容れてくれるので僕はどんどんダメになる。南アフリカでの活動をいったん終えた僕らは日本に戻って、彼女は就職するけど僕はひたすら酒とドラッグを摂取し続け、ある日気持ちよくなった僕はマンションの二十四階、彼女の部屋から飛び降りる。

 結論から言うと僕はその時死んだ。死ぬ、という表現はおそらく当てはまる。僕は真っ暗でだだっ広い空間のなかにいて目の前には大きな扉がそびえていた。僕は死んだのだとはっきりと感じた。魂の存在を実感したときと同じように。この先が天国か地獄、あるいはそのどちらかを振り分けるための控え室みたいなものなのだろうかと考えるけど、今はそんなことはどうでもいい。僕は死んだ。その事実を受け容れるのに僕はかなり手間取った。なにしろ僕は一度死んで、生まれ変わっている。普通、それで人生は何度も永遠に繰り返されるものだと思うだろう? だけど実際はたったの二度で終わりだったのだ。僕は何だか、いるかどうかもわからない、信じてもいない神様に弄ばれているような気分になってきて腹が立つ。いったい生きる意味ってなんなんだ? どうして僕は二度生き、二度死ななければならなかったのだろう。僕はたった今僕が死んだことにこそ意味があるのではないかという気がして、考える。僕が死んだ意味のひとつは、こうして死んだ意味について考えるためではないのかと。

 最初の人生、僕は頑張った。人生は一度きりだと信じていたからだ。やれることをやれるだけやろう、そう思ってやっていた。
 二度目の人生は、そうでもない。ただ目先の餌に食いついて、自堕落な人生だったと思う。人生は何度も繰り返すのだから、自由気ままにやってもいいだろうと考えた。
 そして、すべてが終わった。
 そこにある意味は何だろう。僕は思考を巡らせる。本当は魂は思考せず、ただ思考の結果が降って湧くだけだ。ここでの思考とはその結果を待つことに等しい。ぼくはただ待った。だけど、そのひらめきはいつまで経ってもやってこない。
 死ぬという経験は、当然死ぬまで得ることの出来ない貴重なものだ。にもかかわらず、僕は自分が死んだ意味、自分が死んだと知ったことの意味を見出せずにいたのだった。僕はとたんに悲しくなってきた。僕はこのことについていったん考えるのをやめて今のことを、そして、この先のことを考えた。この門の向こう側はいったい何なのだろう? 僕は自分がこの先どうなるのか知るのが、少し怖い。僕は現実から目をそらすようにして仮定の未来を考える。もしも人生が三度あったなら、僕はどう生きるだろうかと。
 そこで僕ははっとした。きっと僕は三度目の人生を真摯に生きるだろう。一度目よりも丁寧に、二度目よりも誠実に。……そうだ。やはり人は自分が死ぬということを知るために生きているのだ。あるいは、人はただ生き、ただ死ぬだけだとしても、そこに意味はないことが悲しみになどはなりはしない。絶望する必要はどこにもない。僕は魂として確かにここにあって、同時にないものなのだから。
 僕は重い扉を押し開いて、その隙間から差す光に目をしばたたきながら、その先へと足を踏み入れた。僕は満足している。怖さだって微塵も感じない。僕は死んでしまったけれど、三度目はきっと存在しないのだろうけれど、もう哀しさだってどこにもないのだから。僕はそれを知るためにここへ来たのだ。

***

 なんていう夢を見たいなあと思った。僕が実際に見る夢は面白くないのだ。これだって、面白いかどうかはわからないけれど、夢がもつ不思議な説得力が加われば、そこそこ良い線行くと思うのだが、どうだろう?
 ちなみにこれは宮本輝の「星々の悲しみ」という短編の影響が大きい。とてもいい小説なので、気になる方は是非。
 とにかく今は眠いでござる。寝るでござる。ぐう。

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